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【295】 | RE:これから先どうしたらよかんべ・・ 旧知の某 (2009年08月07日 15時32分) |
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相変わらず歯に衣着せぬ過激なご発言、尊敬します^^ >ここが特別法にならない特殊性なんですな。 戦後雨後のタケノコのごとくパチンコ屋が出現した当時、政府は「戦後復興と荒んだ世情」対策の一環としてパチンコ業を許可することにより「財政負担無しでパチンコ営業者の生活の維持」ができ「庶民のささやかな射幸心を満足させるガス抜きの場の確保」ができ、一挙両得と考えたのでしょう。 賞品として自己消費用の生活用品を提供している分には「庶民の娯楽場」として何等問題はなかったのでしょう。 しかし、パチンコ営業者の経営手腕?と税法無視?で市場を拡大し、あっと言う間に日本の社会風俗の一つになってしまいましたね。 又、直ぐに「景品買いのおばちゃん」が出現するとは当局も予想できなかったのでしょう(甘い!) それらの結果が三店方式に帰結したのでしょう。 賞品は生活用品という原点に帰る(換金不可)という方法、 公営パチンコにする(換金可)という方法、 の二つの選択肢しかありませんね^^ それはさておき 素人Bさんは「景品買いのおばちゃん」にタバコを買って貰ったことあります? ぉいら経験あるもんね(生き証人)^^ |
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【296】 |
素人B (2009年08月07日 16時16分) |
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これは 【295】 に対する返信です。 | |||
>それはさておき >素人Bさんは「景品買いのおばちゃん」にタバコを買って貰ったことあります? > >ぉいら経験あるもんね(生き証人)^^ ほほう・・「景品買いのおばちゃん」ですか? わたしが初めてパチをやったのは確か・・・1966年頃でしたか?・・・横浜は上大岡という京急の駅前・・「ハイライト??」みたいな名前のオミセでしたっけ?? 当時は立ったままで左手に玉を一掴みして親指で器用に一個づつ繰り出して・・・右手親指でレバーをストローク加減しながら打ち出すと・・・見事「チューリップ」に入賞すればしばらくはまとめて入る。 でジャラジャラと玉が増えると台の上部玉保管量が減ってきて・・・赤ランプが点くと島の中に居る女性が手補給してくれるというような按配でしたな。 当時の先輩から教わった必勝法は「台の寝かせを見抜くこと=台の下部を思いっきり引いて寝かせる=ガラスにガチガチ当たる台は敬遠する」と「島の女性に愛想好くすること=手間を掛けて小刻みに補給すると出易い」などかな? まぁ・・・当時はかまぼこ型の箱に2,3箱とればタバコと交換して「ヤッターッ!!」というようなささやかなギャンブルでしたから・・・オバサンに売るほどの量は獲れなかったですな。 で・・・社会人になってからというものは、とんとパチにはご無沙汰で・・・30代半ばで中部地方に長期出張していた際に数度・・・その時は中央部に一回当たるとドカンと箱一杯分とか・・50代初めに横浜郊外店で数度やったときは既に内部抽選フィーバー機になっていて・・・当然、特殊景品での換金でしたな。 ドカドカ出るので箱に移し変えるのが間に合わなくって・・受け皿がイッパイ→エラー停止!! 店員さんにこっぴどく叱られて・・・退場!!もあったっけ・・・(しょんぼり) 当たると台枠に配置されたラッキーナンバー抽選ってのがあって・・・「7」で止まれば5箱?3箱??どっちか忘れたけど・・・「7」だったのにそのまま続けて打って「権利放棄」したあとに「ニヤッ」と笑って教えてくれたパチプロのいやらしさ・・・(ニガァー!!) それから定年後に再開するまでのパチ経験というのはホント・・数えるほどのものですよ。 他の職場マージャンやゴルフなどのサラリーマン遊興が忙しくて・・・パチ屋に費やす余暇時間がありませんでしたな。 わたしはパチに関しては「素人」です。 |
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