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トピック
茜☆結衣の部屋 茜☆結衣 (2011年09月10日 01時34分)ID:HpReRfPc 評価
茜☆結衣の部屋へようこそ

ここは、好きな事を好きな時間にカキコする事が可能です。

但し、荒しや中傷などはやめましょう

では、第2トピ、スタートです

さて、いつまで続くのか?

■ 78件の投稿があります。
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【78】

RE:茜☆結衣の部屋  評価

茜☆結衣 (2011年09月19日 19時25分) ID:HpReRfPc

トピやめるわ
















































さよなら
【77】

RE:茜☆結衣の部屋  評価

ピストルの健 (2011年09月19日 01時31分) ID:IdVeHbQf

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)は、仏教用語で、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということを指す。涅槃寂静は三法印・四法印の一つとして、仏教が他の教えと根本的に違うことを示す。

この言葉は、『雑阿含経』などには、涅槃寂滅『大智度論』には涅槃実法印などと出てくる。「涅槃寂静」と言う用語が登場するのは、『瑜伽師地論』である。

なお、漢字文化圏では10-24を示す数の単位としても用いられる
【76】

RE:茜☆結衣の部屋  評価

ピストルの健 (2011年09月19日 01時23分) ID:IdVeHbQf

諸法無我(しょほうむが)は、仏教の用語の一つであり、三法印・四法印の一つであり、釈迦の悟った項目の一つである。すべての存在には、主体とも呼べる「我」(が)がないことをいう。

諸行無常といわれるように、一切のものは時々刻々変化している。ところが我々は、変化を繰り返し続ける中に、変化しない何者かをとらえようとしたり、何者かが変化してゆくのだと考えようとする。その変化の主体を想定してそれを我(が)という。 我とは「常一主宰」(常とは常住、一とは単独、主宰とは支配すること)のものといわれ、つまり常住である単独者として何かを支配するものを指す。

インド古来の考え方は、変化するものに主体としての変化しないものを想定した「有我論」(うがろん)である。ところが、仏教は、存在とは現象として顕われるのであり、変化そのものであり、変化する何者かという主体をとらえることはまちがいであると指摘する。そのような妄想された「我」に執着する執着を破るために諸法無我が説かれた。これは一般に有我論が説かれている最中に釈迦だけが主張した仏教の特色である。諸法無我は、インド在来の実体的な「我」の存在をも否定し、「我」を含むあらゆる存在は「実体」ではありえないことを主張する。

我々人間は、しらずしらずの間に私自身の現存在を通じて、そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の成長変化を認めながら、そこに「私」と呼ぶ実体的「我」を想定し、成長変化してきた私そのものをつかまえて、私は私であると考える。しかし、諸法無我はそれこそ我執であるとして退け、変化をその変化のままに、変化そのものこそ私なのだと説くのである。この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、つねに一切の力の中に「関係そのもの」として生かされてあるという、縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。

一切のものには我としてとらえられるものはないという考え方を徹底して自己について深め、目に見えるもの見えないものを含めて一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えている。このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の働きがありうるとする。
【75】

RE:茜☆結衣の部屋  評価

ピストルの健 (2011年09月19日 01時20分) ID:IdVeHbQf

諸行無常(しょぎょうむじょう)とは、仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。この場合、諸行とは一切のつくられたもの、有為法をいう。三法印、四法印のひとつ。
【74】

RE:茜☆結衣の部屋  評価

ピストルの健 (2011年09月19日 01時16分) ID:IdVeHbQf

一切皆苦(いっさいかいく)とは、仏教における四法印の一つである。

初期の経典に「色は苦なり」「受想行識も苦なり」としばしば説かれている。これを「一切皆苦」と言う。

「苦」の原語は、パーリ語のドゥッカ(dukkha)で、これは単に、日本語の「苦しい」という意味だけではなく、「空しい、不満、不安定」といった幅広い語義を持つ。 それゆえ、「一切皆苦」は「すべての存在は不完全であり、不満足なものである」と言いかえることもできる。不完全であるがゆえに、常に変化して止まることがない。永遠に存在するものはなく、ただ変化のみが続くので「空しい」というふうに、「苦」という一語で様々な現象が語られる。


阿毘達磨(アビダルマ)文献によれば、苦は「逼悩」の義と定義される。「圧迫して(○○○○○に)悩まされる」という意である。この苦には二つの用法がある。一つは楽や不苦不楽に対する苦であり、他は「一切皆苦」といわれるときの苦である。前者は日常的感覚における苦受であり、肉体的な身苦(苦)と精神的な心苦(憂)に分けられることもある。しかしながら、精神的苦痛が苦であることはいうまでもないが、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされ、これを苦苦・壊苦・行苦の三苦という。すなわち、どちらの立場にしても、苦ではないものはないわけで、一切皆苦というのは実にこの意である。
【73】

RE:茜☆結衣の部屋  評価

ピストルの健 (2011年09月19日 01時14分) ID:IdVeHbQf

八正道(はっしょうどう)は、釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳。「八聖道」とも「八支正道」とも言うが、倶舎論では「八聖道支」としている。この 「道」が偏蛇を離れているので正道といい、聖者の「道」であるから聖道(aaryaamaarga)と言う。

正見

正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれる。われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」(samyag-dRSTi, sammaa-diTTi)である。このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが、その世俗性の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである。正見は「四諦の智」といわれる。この正見は、以下の七種の正道によって実現される。 八正道は全て正見に納まる。

正思惟

正思惟(samyak-saMkalpa, sammaa-saGkalpa)とは、出離を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟することである。このうち「出離を思惟する」とはパーリの原文では「ネッカンマ・サンカッパ」(nekkhamma saMkappa)であって、「nekkhamma」とは世俗的なものから離れることを意味する。財産、名誉、など俗世間で重要視されるものや、感覚器官による快楽を求める「五欲」など、人間の俗世間において渇望するものの否定であり、それを思惟することが正思惟である。
この世俗の心の否定は、具体的には無瞋の思惟、無害の思惟である。いわば瞋恚の心や害心のすがたを、ありのままの姿で思惟し、これを捨てることを思惟するのである。自己本位にふるまう人間の行動や、独善的な人間の行為を、思惟によって明らかにして、これを否定するのである。このように正思惟とは、自己本位的な立場を否定してゆき、最終的に自我観念が成り立たないことを見きわめることである。

正語

正語(samyag-vaac, sammaa-vaacaa)とは、妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、両舌(仲違いさせる言葉)を離れ、悪口(粗暴な言葉)を離れることである。

正業

正業(samyak-kalmaanta, sammaa-kammanta)とは、殺生を離れ、盗みを離れ、性的行為(もしくは社会道徳に反する性的関係)を離れることをいう。 この二つは正思惟されたものの実践である。



正命(samyag-aajiiva, sammaa-aajiiva)

「邪命を捨てて、正命によって命を営む」とか「如法に衣服、飲食、臥具、湯薬を求めて不如法に非ず」といわれるのは、如法な生活それが正命であることをあらわす。簡潔にいえば、道徳に反する職業をやめ、正当ななりわいによって生活を営むことである。

正精進

「正精進」(samyag-vyaayaama, sammaa-vaayaama)とは、四正勤(ししょうごん)、すなわち「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を生こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践について努力することである。

正念

四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態でいることが「正念」(samyak-smrTi, sammaa-sati)である

正定

正しい集中力(サマーディ)を完成することである。この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られるのである。
【72】

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ピストルの健 (2011年09月19日 01時17分) ID:IdVeHbQf

四諦(したい)とは、仏教用語で、釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた苦集滅道の4つをいう。四諦は簡略形であって、直訳された四聖諦が正しい。

諦とは「真理」という意味であり、四聖諦とは「4つの聖なる真理」の意である[1]。4つの真理とはそれぞれ、

苦諦:苦という真理
集諦:苦の原因という真理
滅諦:苦の滅という真理
道諦:苦の滅を実現する道という真理(→八正道)
4つの真理は前半の2つと後半の2つで二分することができる。

また、「苦の原因」から「苦」が生じ、「苦の滅を実現する道」から「苦の滅」に至るというように、それぞれ順序が逆転している。 (集諦→苦諦、道諦→滅諦)

それぞれ「遍知」、「滅除」、「成就」、「修習」という課題が付随している。

すなわち、

苦は「知り尽くすべきもの」(遍知)
苦の原因は「滅するべきもの」(滅除)
苦の滅は「実現すべきもの」(成就)
苦の滅を実現する道は「実践すべきもの」(修習)
ということである。
【71】

RE:茜☆結衣の部屋  評価

ピストルの健 (2011年09月19日 01時05分) ID:IdVeHbQf

縁起(えんぎ、サンスクリット:pratiitya-samutpaada、パーリ語:paTicca-samuppaada)は、仏教の根幹をなす思想の一つで、世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指す。縁起の語は「因縁生起」(いんねんしょうき)の略で、「因」は結果を生じさせる直接の原因、「縁」はそれを助ける外的な条件のことである。

ある結果が生じる時には、主な原因だけではなく、それ以外の様々な原因や副次的な原因を含めて、あらゆる存在が互いに関係しあうことで、それら全ての関係性の結果として、ある結果が生じるという考え方である。 なお、その時の原因に関しては、数々の原因の中でも直接的に作用していると考えられる原因のみを「因」と考え、それ以外の原因は「縁」と考えるのが一般的である。
【70】

RE:茜☆結衣の部屋  評価

ピストルの健 (2011年09月19日 01時03分) ID:IdVeHbQf

中道(ちゅうどう)とは、仏教用語で、相互に対立し矛盾する2つの極端な概念に偏らない自由な立場による実践(仏道修行)をいう。

たとえば、厳しい苦行やそれと反対の快楽主義に走ることなく、目的にかなった適正な修行方法をとることなどが中道である。

釈迦は、6年間(一説には7年間)に亙る厳しい苦行の末、いくら厳しい苦行をしても、これでは悟りを得ることができないとして苦行を捨てた。これを中道を覚ったという。釈迦は、苦行を捨て断食も止めて中道にもとづく修行に励み、ついに目覚めた人(=仏陀)となった。苦・楽のふたつをニ受(にじゅ)といい、「有る」とか「無い」という見解を二辺(にへん)というが、そのどちらにも囚われない、偏らない立場を中道という。

その中道を、智ギは真理とよび中諦を説いた。諦とは真理という意味である。

中国で説かれた中庸と同一視されることもあるが、厳密には別のものである。中庸の「中」とは偏らないことを意味し、「庸」とは易(か)わらないこと、と説明されている。中道の「中」とは偏らないことを意味し、「道」は修行を意味するとされる。
【69】

RE:茜☆結衣の部屋  評価

ピストルの健 (2011年09月19日 01時01分) ID:IdVeHbQf

クルアーン(قرآن qur’ān)あるいはコーランとは、イスラーム教(イスラーム)の聖典である。イスラームの信仰では、唯一不二の神(アッラーフ)から最後の預言者に任命されたムハンマドに対して下された啓示と位置付けられている。ムハンマドの死後にまとめられた現在の形は全てで114章からなる。「読まれるもの」を意味する。(アラビア語では定冠詞が伴い「アル=クルアーン」と呼ばれる。)

欧米では古くから Coran あるいは Koran と呼ばれており、日本でも長らくそのカタカナ化した形である「コーラン」という名前で呼ばれてきた
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