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【8959】 | ☆S・Pエスさん ロータリー7 (2007年11月16日 06時47分) |
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S・Pエスさん おはようございますー♪ *゜:+.。☆┗(^▽^*)*゜:+.。☆ >「小田原評定」という悪評を付けられたことは無念です。 興味がありますので・・・また、ご都合の良いときにでも詳細をお願いします♪ ○┓ペコリ >現在、小田原市で北条五代祭り うちの嫁さんの実家方面では『源氏祭り』というのがあります。 各地域で英雄を祭ったりする催し・・・日本の良き文化の継承ですねぇ♪ o(*^▽^*)o >「明智光秀、丹波を広め、広め丹波の福知山」という詩が残っており 丹波といえば、黒豆の印象しかなかったのですが(汗)(;^_^A 明智光秀が丹波方面で慕われていたのですねぇ。・・・勉強になります☆ >歴史は勝者の歴史 よく似た例えに・・・『敗者の論理は通用しない』 敗者=悪 勝者=善の論理がまかり通っておりますが(欧米など) 敗者も祭る文化が大切にされているのは・・・掬われる気分になります。 |
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【8964】 |
S・Pエス (2007年11月16日 10時51分) ID:SeXyWmRm |
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これは 【8959】 に対する返信です。 | |||
再度です。 小田原評定を辞書で引くと、「豊臣秀吉の小田原征伐のとき、北条方の和戦の評定が容易に決定しなかったところから、長引いて容易に結論の出ない会議・相談。」とあります。 1583年の「賤ヶ岳合戦」で柴田勝家に勝利した秀吉は、中国地方の覇者・毛利輝元、九州の覇者・島津義久、東海の覇者・徳川家康に臣下の礼を取らせて、ほぼ天下統一を成就していました。 しかし、関東の覇者・北条氏4代・氏政は容易に上洛(臣下の意思表示)せず、東北の勇・伊達正宗と連絡を取り合って、一戦も辞さない姿勢でいました。 その頃、伊達正宗は秀吉の情報が不足し、敵対する南部氏などが既に秀吉傘下に入っていたことに危惧を感じていたと思います。実は当時、関東以北の太平洋側の地域は、箱根の天嶮と太平洋ルートの廻船の不足により、情報が届かず中央政権の情勢が分からなかったそうです。 北条氏政は当時家康と同盟を結んでおり、秀吉が徳川を上洛させるために妹を家康の嫁に出し、自分より高い官位を送ったり、実母を人質にまで出していたことを知っていました。しかし、氏政には書簡のみでの上洛催促で、大変な不満があったようです。また、臣下後、北条氏の政権における地位も低いのではないか、との疑問があったかもしれません。 何より同盟者・家康が「小牧・長久手合戦」の様を吹聴し、秀吉軍の弱さを誇張していた可能性が大きいと思います。結局、頼みの伊達正宗にも裏切られ、小田原征伐で切腹に処せられ、北条氏は5代氏直で主家が絶えました。 箱根の天嶮も20万の秀吉軍には防御にならなかっただけではなく、中央の情勢の動向を把握すべき情報収集の妨げになったことに、何の対策も立てなかったつけが回った感じですね。桶狭間合戦にも言えますが、情報の大切さを感じます。 氏政の暗愚を示すエピソードとして、汁掛けごはんの話があります。お茶碗のご飯に汁を掛けたところ、1回で適量を掛けられず、それを見た3代・氏康は、たかが1杯の碗の分量がはかれない者に、どうして国が治められようかと嘆いた話です。 また、同盟者・家康から当時珍しかったオレンジを送られた時、当時沢山自生していた橙と思って、「三河(現・愛知東部)では橙が珍しいのか」と言わんばかりにかごいっぱいの橙を送り返した逸話があります。この時家康は、北条氏は三河にも橙が多く自生していることを知らないと悟ります。そして、オレンジを手にとって確認することもせず、見た目で橙と誤認したと考えました。皮を剥いてみれば、即座にそれが橙ではなく、香りが強い別物と分かるはずですからね。家康は北条氏が頼りにならないと悟り、秀吉に臣下の礼を取り、小田原征伐の先陣として活躍しました。 氏政が傑物で頼りになる武将だったら、徳川、伊達との連合軍が成立し、秀吉と言えども容易に勝てなかったでしょうから、その後の歴史は変わっていたかもしれませんね。 またまた、無駄が長くなり失礼致しました。 |
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