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【8808】 | 桶狭間 聴講生でござる2 mixra (2007年11月08日 23時52分) |
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桶狭間の合戦、理解したなりに書いてみました。(違ってたら修正お願いします〜) &棋譜っぽくしてみました。 ええと・・・SPエスさんのお話ですと・・・、布陣がこんな感じでしょうか。 『上洛戦』だと・・・今川さんが上洛するついでに、通り道の織田家をぶっつぶす(今川先手) 『後詰め決戦』だと・・・信長さんが今川の領地を包囲し、兵糧攻めしたので救援に来た。 併せて織田家もろともぶっつぶそうとした(織田先手) どちらが先手・後手でその後の展開&発想&布陣が変わる 後詰だと↓のような布陣でよいでしょうか? 【追加編集】 本当はこの後・・・ 先手 織田信長 大高城兵糧攻め 後手 今川義元 △1三松平元康 大高城後詰成功 封じ手 深夜 織田信長 幸若の舞『人生五十年』 などと展開書こうとしたのですが・・・ 思った以上に時間掛かってしまい、手筋全く書いてません・・・力尽きました・・・ 今夜は早く寝ます・・・お先にお休みなさい〜。 |
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【8825】 |
S・Pエス (2007年11月09日 09時56分) ID:HvTsFkZb |
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これは 【8808】 に対する返信です。 | |||
mixtraさん、こんにちは。 お手数をお掛けしてしまいましたね。将棋やチェスは戦術、戦略を鍛えるために発展してきたのでしょうか。兵法は難しくて私にはなかなか理解し得ないです。布陣から的確な判断が出来ずすいません。 ただ、1560(永禄3)年当時の状況として、今川家の家督は氏真(22)に譲っており、今川義元を取り巻く武将の年齢、信長(26)、義元(42)、氏康(41)、信玄(39)、謙信(30)、家康(18)を考えますと、三河の安定を図るための後詰め決戦に臨んだのではないかと推測します。 義元は本国の駿河、遠江を当主氏真に、三河を自身が統治する考えだったと思います。甲・相・駿三国同盟は健在でしたが、当時の同盟など三国のバランスが崩れれば反故される可能性は高かったと思います。 上洛戦を前提としますと、美濃(現・岐阜)の斎藤氏や近江(現・滋賀)の六角氏、京極氏他有力豪族に対する備えが疎かですし、巷間云われる幕府への事前連絡もなかったようなので、この辺の疑問が残ります。 こう考えますと、やはり後詰め決戦と捉える方が自然かと思いますね。では、当を得ない返信ですみませんでした。 |
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【8817】 |
ロータリー7 (2007年11月09日 01時56分) |
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これは 【8808】 に対する返信です。 | |||
mixtraさん こんばんわー♪ *゜:+.。☆┗(^▽^*)*゜:+.。☆ >戦国将棋トーナメント桶狭間戦 w( ̄o ̄)w オォー! これは史実に基づいた戦況だったのでしょうかぁ? みんとらびっちさんの希望的観測も考慮をされている?!(汗) とにかく・・・お手数がかかった図だったようで♪ 布陣が分かりやすいですねー☆ >織田信長 幸若の舞『人生五十年』 今夜はお疲れのところを、ありがとうです☆ また次の機会に・・お時間のある時にでも、続きを〜♪ 楽しみにしております。o(*^▽^*)o ところで、眼力トレは続いてますかぁ?(笑) |
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