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【8800】 | 勝手に歴史無駄話シリーズ S・Pエス (2007年11月08日 11時49分) |
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桶狭間合戦編 1560年5月19日、桶狭間山で信長率いる2,000が今川義元率いる20,000超に見事勝利を収めた日です。もっとも局地的に今川義元は馬廻り衆(旗本)500騎程度に守られ、休息中に急襲された訳ですから勝ち目はありませんでした。 信長は前年からこの年の初め頃に、既に今川勢力下になっていた尾張国内東方にある鳴海・大高両城に対する付け城(数百人程の城兵が入れる程度の砦)を築き、両城を監視させていました。今川方から見れば三河における今川勢力の安定と駿河、遠江、三河三国の盟主としての面目を保つため、この両城の後詰めをする必要がありました。通説では今川の上洛戦ですが背景を見れば、戦国期によく見られる後詰め決戦であったことが伺えます。 桶狭間合戦に至る過程において、信長は鳴海城守将の山口氏を織田方に寝返ったと誤報を流し、義元に切腹させていたことも重要な要素です。また、義元の不幸として、自分を当主に据え軍師として活躍した太原崇孚雪斎が1555年に他界していたこともありました。 「信長公記」には家老達は籠城を主張したが、聞き入れられず作戦提示もないまま「運の末ともなれば智慧の鏡も曇るものよ」と嘆いて帰宅したとあります。籠城は長期戦をしのぐ十分な食料、武器、兵力、要害の地があって効果があります。清洲城は要害ではなく、後詰めしてくれる援軍の期待もありません。信長にしてみれば、出来る限りのことをして清洲城主としての責任を果たそうと考えたのではないでしょうか。この辺の機微は本人じゃないと分かりません。若い頃の信長は、「寄親寄子制度」を確立し、強度な軍事組織を築いていた義元を十分研究し、三間半の長柄槍による集団戦、足軽鉄砲隊の編成など自軍の組織強化に応用したようです。 梁田正綱の情報は、正確な伝達時期は不明ですが、戦後の論功行賞から事実であったことは間違いなく、彼以外にも情報収集は多数の斥候が行っていたことは想像できます。今川方は駿河、遠江、三河を手中にし、信長の父信秀には優位に立ち尾張東方に楔を打って尾張を伺う勢力でした。次代の若い信長に不注意だったことは否めません。むしろ相・甲・駿三国同盟の盟主、北条氏康、武田信玄(晴信)を危険視していたでしょう。 5月19日未明、今川軍出現の報に触れ僅かな数で清洲を飛び出し熱田神宮へ向かう信長に続々と参集する家臣達。熱田神宮から幾つかの砦を経由し軍備を整えながら桶狭間へ向かう信長軍約2,000、この間の数時間に今川方へ信長軍の動きを知らせる地域住民は見受けられず、少数とは言え2,000人が脱落せず、士気を保ったことは大きな勝因だったと言えます。一方の義元軍は早々の緒戦戦勝で油断と規律の乱れが生じていたことでしょう。 義元が桶狭間の休息地に到着した頃、既に大高城への兵糧入れは三河衆により完遂しており、各所から入る報告は戦勝しかなく、織田方のたいした抵抗もなかったため、乱取り(敵地での略奪行為)も早い段階から見受けられ、戦地は敵味方入り交じっての混乱状態にあったかもしれない。そこへ突然の大雨、雨宿りに乱れる義元本陣、その居を突いて飛び出す信長軍。勝ち戦で戦勝気分の義元軍が一挙に形勢逆転された瞬間、歴史は動きました。 今週末の大河ドラマ「風林火山」では、今川軍の上洛戦(従来説)としていますが、後詰め決戦にしろ客観的に証明する資料は、現在まで発見されていません。上洛戦と見るか後詰め決戦と見るかで、印象は違うかもしれないところも歴史の面白さと思います。 長文ご無礼つかまつりました。 |
■ 10,000件の投稿があります。 |
【8807】 |
mixra (2007年11月08日 23時26分) ID:VpFuFnMj |
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これは 【8800】 に対する返信です。 | |||
戦国将棋トーナメント桶狭間戦 対局年 1560(永禄三)年 ▲織田信長(魔王) VS △今川義元(治部大輔・東海一の弓取り) これまでの棋譜(右 伊勢湾) 5 4 3 2 1 |−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−| |今川 義元| | | | | | 岡崎城 | | | |氷上山 砦|一 | △ | | | | ▲ | |−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−| | | | | | | | | |証光寺 砦| | 向山砦 |二 | | | ▲ | | ▲ | |−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−| | | | |佐久間盛重|鵜殿 長照| | 沓掛城 | | | 丸根砦 | 大高城 |三 | △ | | | ▲ | △ | |−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−| | | | | |織田 秀敏| | | | 桶狭間 | | 鷲津砦 |四 | | | | | ▲ | |−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−| | | | | | | | | | | | 中島砦 |五 | | | | | ▲ | |−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−| | | |佐々隼人正| |岡部 元信| | | |善照寺 砦| | 鳴海城 |六 | | | ▲ | | △ | |−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−| | | | | |佐久間信盛| | | | | | 丹下砦 |七 | | | | | ▲ | |−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−| | | | | | | | | | | |熱田 神宮|八 | | | | | | |−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−| | | | | |織田 信長| | | | | | 清洲城 |九 | | | | | ▲ | |−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−|−−−−−| |
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【8801】 |
S・Pエス (2007年11月08日 12時49分) ID:HvTsFkZb |
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これは 【8800】 に対する返信です。 | |||
信長の凄さを示す2つの判断 1.家臣達が主張した将来性のない籠城作をきっぱり捨て去り、義元の一部隊への攻撃で本陣を退却させる戦法を取ったこと。一部隊への攻撃はあくまで想像ですが、義元側は鳴海・大高両城への兵糧入れで駿河、遠江、三河三国の盟主としての面目を保ち、作戦の成功により帰陣しても良かったという客観的な事実があります。 2.義元の動きを正確に把握していたこと。義元陣営は信長がどこにいるか把握していなかったと思われます。圧倒的な兵力差が信長への注意を怠らせたと想像できます。情報戦での勝利でもありますが、梁田出羽守正綱との信頼関係も重要です。義元が大高城守将の山口父子を信長への内通疑惑から切腹させたことは、その明暗を示す見事な対比と思います。 ある研究者の仮説に見る信長の残酷性 信長公記では、鳴海・大高両城への付け城(砦)の陥落までを「朝合戦」、その後を「総崩れ」と記しています。上記付け城(砦)の城将の中に、家康の叔父に当たる水野信元が居たとする説ですが、合戦当日に多勢の今川軍を目の当たりにして戦線離脱し裏切ったのではないか、というものです。そう考えると、確かに、共に付け城(砦)を守った城将たちの討ち死にが信長による連帯責任(処刑)として理解でき、太田牛一が「朝合戦」と「総崩れ」に分けて記述した心情が読み取れます。当時26才だった信長の統率力、決断力、厳しさを感じます。 長文失礼しました。前項でシリーズと書きましたが、単発打ち切りとなるかもしれませんね。 |
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