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【6】

無敵の若頭の寂しい最期    地道行雄  評価

のほSEIL☆ (2022年03月03日 15時13分)

昭和四十四年四月二十八日未明、
三代目山口組舎弟の地道行雄は
自宅で激しく喀血して倒れた。

驚いた妻は119番し、救急車は
意識不明の地道を乗せて
深夜の神戸を駆け抜けた。

だが、この急患に病院はどこも冷淡だった。

最初の医者は「悪性の肺ガンです」と診断したが
それ以上の診察を拒み、二軒目、三軒目も
「設備が整っていない」と門前払いした。

すでに地道の顔色は死人のように青ざめ、
吐血も止まらなかった。

妻は半狂乱のように夫の名を呼び
「後生だから、お医者さんを …」と叫び続けた。

五軒目の病院が診察してくれたものの
「応急手当てだから」という条件つきだった。

ここに至って、地道夫人は最後の手段を
使うことを決意する。

「三代目の姐さんにお願いすれば …」

電話を受けた山口組三代目、田岡一雄組長の文子夫人は
すぐに夫が入院中の関西労災病院に連絡した。

たまたま当直医が夫の主治医である
中山英男医師だったことが幸いして
地道は直ちに入院が受け入れられた。


虫の息の地道が田岡三代目から二つ隔てた病室に
運び込まれたのは午前三時二十分すぎだった。

中山医師の処置によって急場をしのいだものの
ガンはすでに肺から全身に転移しており
もはや余命いくばくもない状態だった。

入院中の田岡三代目がそのいきさつを知ったのは
翌、昼近くのことで、中山医師に

「よろしゅう、願いま」とポツリと言ったという。

だが、酸素テントの中の地道の症状は悪化する一方で
入院から十八日後の五月二十五日、息をひきとった。

中山医師、地道夫人、田岡夫人の三人だけが
穏やかな死に顔を看取った。

その間、二つ隔てた腹心を一度も見舞うことがなかった
田岡三代目の非情さが伝えられたが
現実は当時、三代目自身も症状が悪化し
ベッドから動けなかった、というのが真相のようだ。

田岡三代目が地道の死を知らされたのは
三日後のことだった。

中山医師はマスコミに対し、こう述べている。

「田岡夫人と相談しましてね。
 知らせないわけにもいくまい、
 と機を伺っていました。
 病室を訪れると、三代目はテレビを
 見ているところでした。
 地道さんの死を告げると、
 私の顔をキッと見つめたあと
 すぐにテレビに目を戻しながら

 かわいそうだ  かわいそうだ かわいそうだ …

 と、つぶやいていました」

(↓)
【5】

無敵の若頭の寂しい最期    地道行雄  評価

のほSEIL☆ (2022年03月03日 15時22分)

地道行雄が三代目山口組若頭に就いたのは昭和三十年。

三十三歳という異例の若さだった。

神戸に割拠するローカル組織のひとつでしかなかった
山口組が「全国制覇」の野望に向けて動き出したのは
地道が若頭に就任した直後からである。

三十五年、富裕の地・大阪で猛威を奮っていた
明友会を殲滅して阪都・進出を果たすと
山口組は北へ、西へ、全国侵攻を開始し、
地道は若頭として常に戦闘指揮を執った。

彼の率いた地道組は度重なる抗争でつねに尖兵となり
柳川組、菅谷組、小西一家と並んで
山口組の勢力を拡大させた。

全盛期には構成員八百人を超える
山口組内、最大勢力であった。

当時の兵庫県警資料に次の記述がある。

――― 地道が若頭となってからの
    山口組は四国、中国、九州、岐阜へと
    侵攻し各地で凄惨な抗争事件を展開しながら
    地方組織を吸収し、菱形の代紋で
    その地図を埋め尽くした。


「無敵の若頭」と警察も公言をはばからなかった地道だが、
 昭和四十年代に入ると警察庁による「頂上作戦」によって
 苦境に追い込まれる。

あらゆる法令を駆使して資金源を
根絶させてゆく取締りによって
全国の暴力団は次々に解散に追い込まれてゆき
最大のターゲットは神戸・山口組に絞られてゆく。

折から田岡組長は心臓病で病床に伏し、
山口組は組織存亡の危機に立たされる。

地道は密かに田岡三代目に解散を具申するが、三代目から
「たとえ、自分一人になっても解散はしない」
と、激昂されてしまう。

さらに地道は組内での信用を決定的に
失うことをしでかしてしまう。

西宮市内の再開発を巡る
「さんちかタウン恐喝事件」の取り調べの際、
山口組が建設会社から受け取った警備料金の一部が
田岡組長に渡った、と受け取れる供述をしてしまったのだ。

これにより田岡三代目にも事件の共謀容疑がかけられ

「警察と取引し、親分の名を出した」

と見なされた地道は山口組内部での
求心力を全く失ってしまう。


四十三年二月、地道は自ら若頭辞任を申し入れ
一介の舎弟になりさがる。

それから、まもなくの死であった。

まだ四十七歳の男盛り。

山口組全国制覇に多大な功績を残しながら
その最期はもの寂しく、山口組としての
組葬も営まれなかった。

地道組の勢力は、同組若頭だった佐々木道雄が
直参に取り立てられたのを最後に
地道組の名跡は山口組から絶たれたのである。

(了)
【4】

夭折したアプレゲールヤクザ   三木恢  評価

のほSEIL☆ (2022年03月01日 14時52分)

昭和三十六年十月三十一日未明、
当時 新宿の裏社会ではその名を知らぬ者はいない、
一人のカリスマ的な若者が銃弾に倒れた。

伝説の愚連隊「三声会」を率いたこの男の名を
三木恢(ひろむ)という。


その夜、三木は新宿・歌舞伎町のバー「スワン」で
兄貴分の陳八芳や舎弟たちと飲んでいた。

午前二時ごろ、地下の「スワン」に入ってきたのが
港会・塚原一門の福岡幸男で、
たまたま福岡と三声会の若者が
階段で肩が触れた、触れない、の口論となった。

駆け付けてきた陳八芳の若者が刃物を突き付け、
福岡の顔を殴りつけた。

激昂した福岡を
「まあ、待ってくれよ」と制し、間に入ったのが
日ごろから顔なじみの三木だった。

三木はなんとか福岡をなだめながら外に出て
近くの深夜喫茶「オセロ」で話し合った。

「明日、また、話そうじゃないか」

との三木の説得に応じ、福岡もいったんは
矛を収めて帰ったかに見えた。

だが、福岡はその足で知人宅に預けていた
拳銃二丁を持ち出した。

番衆町の兄貴分の組事務所に寄り、
深夜番の武川一夫を応援に連れて
タクシーで新宿の陳八芳の自宅兼事務所へ走らせた。

陳宅へ向かったのは福岡が「スワン」で
三木と一緒だったことを
知らなかったこともあるが、
陳が三木の「三声会」の上部組織
「東声会」新宿地区の最高幹部であったからだった。

陳が不在のため、二人は事務所の若者一人に
銃を突きつけタクシーに乗せ、
再び「スワン」に向かう。

「スワン」に車が着くのと店から
三木が出て来たのがほぼ同時だった。

三木は舞い戻ってきた福岡を見て
怪訝そうな顔つきだった。

タクシーから降りた若者が
「兄貴、危ない!」と叫んだ。

福岡は手にしたレミントン45口径拳銃を
三木の胸にピタリと押し付けて肩を抱いた。

三木は自分の身に何が起きようとしているのか、
とっさのことですぐに理解できなかった。

福岡が引き金を引き、拳銃は轟然と火を噴いた。

三木はとっさに体をのけぞらせようとしたが
そのまま、道路に倒れ込んだ。

即死だった。    享年 二十三。

続けて二発の45口径弾が三木の
取り巻きたちへ撃ち込まれた。

福岡は硝煙のたちこめる拳銃を握りしめ
店内へと向かい、すでに日本刀で
左手を斬りつけられていた武川があとに続く。

外の騒ぎに気付かず酒を飲んでいたのが陳八芳だった。

拳銃を手になだれ込んできた二人の刺客を見て
大きく目を見開いた陳はアッというまもなく
横腹に銃弾を受けた。

病院に運ばれたが、一時間後に死亡した。

この三木の兄貴分もまだ四十一歳だった。

即死した三木はこの日もいつもと同じように
三声会のバッジを光らせた三つボタンのスーツに
雪駄ばき、というスタイルだった。

(↓)
【3】

夭折したアプレゲールヤクザ   三木恢  評価

のほSEIL☆ (2022年03月01日 13時17分)

三木恢は昭和十三年、当時の朝鮮・光州に生まれた。

兄三人、姉二人の五人兄弟の末っ子。

父は鉱山経営者で戦後は東京・中野で
税務法律相談所を経営していた、という。

裕福な家庭に育ち、小学生時代は成績もトップクラスの
三木だったが、中学二年のときに父を亡くすと
急速に反逆児の性格になってゆく。

高校になるとますます粗暴となり、
ケンカが原因で四度、転校し、
十七歳のころには新宿周辺の
番長格を引き連れて一派を形成。

グループ名「三声会」を名乗り、
三木はその首領として君臨、
アウトロー社会の寵児となる。

昭和三十三年、三木が二十歳のときには
配下は三百とも五百とも噂される愚連隊集団となった。

「三声会」にはヤクザ社会のような
伝統もルールもなかった。

盃も仁義も無用、刺青や指詰めも愚の骨頂であり、
入るも去るも自由だった。

渋谷の不良大学生で結成された安藤組より
さらに下のハイティーン集団で大半が高校生。

当初、既存のヤクザ組織が「ジャリのお遊び」と
全く相手にしなかったのも無理はなかった。

「三声会」の名は三木の兄貴分、陳八芳が所属する
「東声会」から付けられた。

東声会というのは前身を町井一家と称し、
戦後、会長の町井久之によって結成された
武闘派ヤクザで陳八芳はこの東声会幹部であった。

つまり三木の三声会は東声会の下部組織でもあった。

昭和三十四年七月のサンデー毎日の
「アプレゲール(戦後派)ヤクザの素顔」と題した
インタビュー記事の中から三木語録を拾いあげると ――


「俺は仁義はいらない。縄張りもない。ケンカだけだ。
 金になると思えば、そこに行くだけだ」

「弱肉強食の世界だから、つぶせるものは、つぶせ、が
 オレの主義だ」

「強いものが勝ちなんだよ。オレは太く短く生きるんだ」


ことさらにワルぶっているが、実際には
「不良にしては甘すぎるぐらいの人柄だった。
 結果的にはその甘さが命とりになった」とも言われた。

元より、甘いところを見せればヤクザ社会では
舐められるし、つけ込まれるのがオチである。

三木があえて週刊誌でイキがり、
力を誇示して見せるのは
パフォーマンスとして必要だったのだろう。

戦国時代である新宿制覇の野望に燃えた三木は
手始めに当時の三越裏のキャバレー街に進出すると
新興地、歌舞伎町のバーやパチンコ、喫茶店と
カスリごとの利権を次々と手中にする。

やがて歌舞伎町で堂々と賭場を開帳するようになり
ひと晩で二百万のテラ銭をあげるようになる。

こうなると、当初「ジャリヤクザ」「ガキの集団」として
歯牙にもかけなかった金筋極道たちも、
見過ごしておくわけにはいかなくなった。

いつのまにか三声会は新宿で最も排除すべき存在となる。


「二十歳そこそこの若造に新宿の地図を
 塗り替えられてたまるか」

その果てに行きついたのが
ささいなきっかけからの
三木恢射殺事件であった。

(了)
【2】

山一抗争に斃れた男の矜持  竹中正久  評価

のほSEIL☆ (2022年03月01日 13時07分)


「おどれらはなんじゃい!」

突然、背後に現れた三人の男たちを見て
四代目・山口組組長、竹中正久は
鬼の形相で怒鳴りつけた。

すでに三人の男たちの手に握られていた
拳銃の銃口は竹中組長に向けられていた。

竹中に付き添っていた若頭の中山勝正と
ボディガード役の南組・組長、南力の二人も
凝然と男たちを見やった。

昭和六十年一月二十六日夜九時を回っていた。

大阪・吹田市江坂のマンション
「GSハイム」一階ホールの
エレベーター前である。


この日、竹中正久は終始、上機嫌だった。

午後一時から神戸市灘区篠原本町の
田岡一雄三代目邸隣に建設予定の
新本家の上棟式を行ったからであった。

式後、竹中四代目は中山若頭らと共に
京都府八幡市の病院に入院中の
田岡文子未亡人を見舞った。

上棟式の報告を兼ねての見舞いは
三十分ほどで終え、午後四時前、
その足で大阪・ミナミのホテルに向かった。

夕刻、ホテルでの食事のあと、
竹中一行は馴染みのクラブに落ち着いた。

ここで一時間ほどくつろいだあと、
午後八時すぎに店を出た。

このとき中山若頭が
「お前たちはもう、ええ。
 オヤジの面倒はワシが見るから」
と言って、六人ほどのボディガードたちを帰らせた。

こうして竹中四代目は南組組員が運転するベンツに
中山若頭、南組長の二人だけを連れて愛人の待つ、
マンションへと向かったのである。


その訪れをマンションで待ち構えていたのが
長野修一をリーダー格とする
田辺豊記、長尾直美、立花和夫の
一和会ヒットマン四人だった。

彼らは竹中四代目の愛人が住むマンション
204号室にアジトを構えていたのである。

そのアジトの四人に偵察部隊からの無線が入ったのは
竹中四代目らを乗せたベンツが到着する五分ほど前だった。

「四番、四番、マル対、来た!」

「四番、了解!」

長野修一がマイクに向かって叫んだ。

四人がそれぞれ手にした拳銃は
長野がベレッタ25口径のオートマチック。

田辺がコルトマグナム357、
それにタイタン25口径をズボンのベルトに突っ込み、
長尾がドイツ製のレーム32口径、
立花がコルト32口径だった。

「ええか、決めた手筈どおりにやるんや」

長野の一言で拳銃を手にした長尾、田辺、立花が
一斉に部屋を飛び出すと一階ホールへ階段を駆け下りた。

無線機の後始末を終えた長野が少し遅れて部屋を出た。


竹中四代目ら三人を乗せたベンツがGSハイムに到着し
南、竹中、中山の順でマンションのロビーに入った。

三人がエレベーターの前に立ったところへ
背後からヒットマンが躍り出た。

(↓)
【1】

山一抗争に斃れた男の矜持  竹中正久  評価

のほSEIL☆ (2022年03月01日 13時05分)

竹中四代目が怒声を発した直後
「ドカン!という凄まじい音と光芒が閃いた。

田辺のコルトマグナム357が
竹中に向かって火を噴いたのだ。

マグナムの大口径銃弾は四代目の右腹部に命中。
小腸と大腸を突き抜け、右の腎臓を粉砕した。

竹中は気丈だった。

前のめりになりながらも田辺につかみかかろうとする。

次の瞬間、二発目が発射された。

弾丸は竹中の右手人差し指を関節から吹っ飛ばし
背広を貫き、シャツのボタンを割って
右胸上部の表皮を剥奪して止まった。

長尾も同時に竹中に向け32口径レームを発射したが
弾丸はそれ、中山若頭に向けられた立花の
コルト32口径は不発だった。

すかさず田辺が中山に向けて引き金を引くと
弾丸は中山の左肩に命中、そこを長尾が狙い撃ちし
右胸と頭部に二発の銃弾を浴びせた。

ボディガード役の南組長はとっさに前に出て
竹中にとどめを刺そうと両手で
マグナムを握りしめている田辺に体当たりした。

たまらず転倒した田辺に馬乗りとなり
南組長は腰のベルトに挟んだ
護身用拳銃を引き抜こうとした。

が、この格闘を見た長尾がレーム32口径を
南の側頭部に押し付けて一発、撃ち込んだ。


二発のマグナム弾を浴びながら竹中は力をふり絞り
よろける足どりで玄関に向かった。

ベンツの運転席にいた南組組員が血まみれの
四代目を支え、後部座席に乗せた。

ベンツの前に駆け出してきた長野と立花が
立ちはだかったが南組組員はアクセルを
踏み込んで急発進させ二人を跳ね飛ばした。

ハンドルを握る南組組員が
「親分、大丈夫ですか」と声をかけると
竹中は苦しむ息の中でも
「腹と胸を撃たれた。大丈夫や」と答えた。

だが、大阪・天王寺の大阪警察病院に
運び込まれたときには四代目は
すでに意識不明の重体であった。

体内には三発の銃弾が撃ち込まれ、このうち
四人のヒットマンが放ったものではない三発目の
32口径弾は心房と大静脈を破り肝臓にまで達していた。

この弾丸が竹中四代目の致命傷となった。

そして後にこの三発目の弾丸を放ったのは誰か。

大いなる謎となった。


翌二十七日午後十一時三十五分、
竹中四代目は即死した南組長、
中山若頭に続いて意識不明のまま、息絶えた。

「並みの人間ならとっくに死んでいたでしょう。
 被弾後、二十六時間も持ちこたえたのは、
 死んでたまるか、という気力のたまもの、でしよう」

と医師が語るほど、精神力を死ぬ間際まで
発揮しての壮絶な戦士であった。

享年 五十一歳。
四代目を襲名してからわずか半年後だった。


竹中四代目の生涯は極道社会からは
「徹底して、その分をわきまえ、筋を通した」もの、と言われた。


昭和五十九年六月五日、山口組が分裂し、
一和会を旗揚げした親分衆が記者会見を開いた際、
竹中四代目は

「世間様から見れば、陰花の極道が
 どのツラ下げての記者会見や。
 極道がスター気どりでは世間様から笑われる。
 極道は極道の分をわきまえとれ、いうんや」

と、漏らしたという。

己の生き方、信条を問われ

「オレの生き方かいな。
 そりゃあ、オレは男で死にたいよ。
 ひと言でいうなら、男だった、ということで死にたいわ」

と答える古風さがあった。


金筋極道の一典型としての死はその後、警察庁をして
「ヤクザ社会史上最大、最悪の抗争事件」と総括される
四年越しの「山一戦争」へと、突入するのだった。

(了)
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