| トップページ | P-WORLDとは | ご利用案内 | 会社案内 |
返信元の記事
【32】

カンパチ・ベルガー

カンパチ (2013年10月05日 04時01分)
よく考えてみたら、トピ主って、気楽だな、と思って、立てました。

誹謗中傷、どうぞ。
気が向いたら返レスします。

それと、気ままにつぶやきたい方もどうぞ。
世間話でもしましょ。 

■ 32件の投稿があります。
4  3  2  1 
【32】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月06日 16時59分)

≪ホントにあった、うそみたいな話。だけど、もしかしたら、結構、あるかもしれない、けど、多分、無いだろう、という話≫


2年位前のこと。

パチってて、4〜5連中のことであった。

僕の左となりの空き台に、20代後半と思われる女が座った。

その女は、イスに座るなり、僕に右手を差し出して言った。

『千円貸して』

思わず貸した。

僕って、お人よしだな、と今頃になって思うのだが、
そのときは、その女の動作、言動などが、あまりにも自然だったので、流れに乗って、貸してしまった。

女は、すぐに当りを引いた。

ギョギョッ。

僕は、連が終わり、時短も終わったので、帰ろうと思い、その女に、

『千円返してくれ』と言った。

女は、僕の方を向いて、
『ちょっと、待ってよ』と、まるで、彼氏にでも言ってるような口調で言うと、すぐに台に向き直った。

僕の頭は混乱してしまったが、

『何言ってんだ。店員呼ぶぞ』と言った。

女は、
「じゃあ、これ換金するから」と言った。

僕は、女と一緒に換金所に行った。

女は、
『今日、おカネ無かったのよね。ありがと』と言って、僕に千円渡し、ごく普通に去って行った。


この体験は、一体、なんだったんだ。
人生において、なんか、役に立つのか?。
【29】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

RX−93 (2013年10月05日 21時13分)


カンパチさん、こんばんは。

トピを開設されたんですね。

おめでとうございます^^

これからは、ROMさせて頂きますね。

気長に頑張って下さい。



では、失礼します。
【27】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 17時55分)

≪ページ16≫

集団を象徴する様々なもの、隊旗、そで章、あるいはグリーンベレーなどの特殊部隊の場合には特別の軍服、を作り、また、隊内スポーツ大会から、隊ごとの敵の戦死者数(ボディー・カウント)の比較といったことに至るまで、競争を奨励することによって集団のプライドを高めようとする。

あまり感心しないことではあるが、現実に広く見られる集団ナルシシズムの形が、「敵を作る」こと、すなわち「外集団」に対して憎しみを抱くことである。

これは、初めて集団を組むことを学んだ子供たちにも自然に発生するものである。その集団に所属しない人間は、劣った人間、か、悪い人間、あるいはその両方であるとして見下される。その集団にまだ敵がいないときには、ごく短期間に敵が作られる。

無論、バーカー任務部隊には予め決められた敵がいた。ベトコンがそれである。しかし、ベトコンの大多数は南ベトナム現地の住民で、一般人とベトコンの見分けが付かないことが多い。こうして、ほぼ不可避的に、「特定の敵」がベトナム人すべてを意味するように一般化され、一般のアメリカ人は、ベトコンを憎むだけでなくベトナム人全体を憎むようになる。

集団凝集性を強化する最善の方法が、外部の敵に対する憎しみを助長することだ、とは広く知られていることである。外集団の欠点や「罪」に関心を向けることによって、グループ内の欠陥は容易に、なんらの痛みも感じることなく看過される。

こうして、ヒトラー時代のドイツ人は、ユダヤ人をスケープゴートにすることによって国内問題を無視するようになったのである。また、第二次世界大戦中、ニューギニア戦線で米軍の戦果がはかばかしくなかったとき、司令部は、日本人の残虐性を描いた映画を見せることによって、部隊の集団精神の高揚を図っている。

しかし、こうしたナルシシズムの利用は、無意識のものであろうと意図的なものであろうと、潜在的に邪悪なものである。邪悪な個人は、自分の欠陥に光を当てるすべての物、あるいは、すべての人間を非難し、抹殺しようとすることによって内省や罪の意識を逃れようとする。

同様に、集団の場合にも、当然、これと同じ悪性のナルシシズムに支配された行動が生じる。

こう考えると、物事に失敗した集団が最も邪悪な行動に走りやすい集団だということが明らかとなる。失敗は我々の誇りを傷付ける。また、傷を負った動物はどう猛になる。
【26】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 17時50分)

≪ページ15≫

ソンミ村のような状況のもとでは、一人一人の兵隊がほとんど有り得ないような状況に置かれる。一方では兵隊たちは、「軍人といえども自分の良心を捨て去るようなことは要求されない、不当な命令を拒否する成熟した判断力を持つべきである、というより、これは義務である」といった、どこかで教えられたことをおぼろげながらも記憶している。

ところが、一方では、軍隊の組織とその集団力学が、兵隊が独立した判断力を働かせ、あるいは服従拒否を実行することを、可能な限り苦痛かつ困難かつ不自然なものにする方向に全力を挙げて働く。

C中隊に下された命令が、「動くものはすべて消せ」というものであったかどうか、あるいは「村を廃墟にしてしまえ」というものであったかどうかは定かでない。しかし、もしそうした命令が下されていたとすれば、隊員たちがその命令に従うことに何の不思議もない。

それとも、集団で反抗することを彼らに期待すべきだろうか。

集団で反抗すること、つまり反乱は無理だとしても、上官に反抗する勇気を持ち合わせた人間が、少なくとも数人はいたはずだと期待できないものだろうか。しかし、これは必ずしもそうはならない。


集団の行動パターンが驚くほど個人の行動に似ていることを私は指摘したが、これは、一つの集団というものが一つの有機体組織だからである。この有機体組織は単体としての機能を持っている。個人の集まりである集団が、「集団凝集性」と呼ばれるものによって固体として行動するのである。集団内では、個々の構成員の結束と調和を維持しようとする大きな力が働く。こうした凝集力が失われると、その集団は解体を始め、集団ではなくなるのである。

この集団凝集力として最も大きな力を持っているのが、おそらく集団ナルシシズムだと思われる。この集団ナルシシズムは、その最も単純かつ最も心地よい形としては、集団のプライドという形で表出される。

グループの構成員が自分の所属するグループに誇りを抱くと同様に、グループ自体が自分自身に対して誇りを抱くようになる。ここでもまた軍隊は、他の多くの組織以上に、意識的に集団のプライドを高める方向の動きをする。
【25】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 17時49分)

ん、なんだ。
【21】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

ジジーブサイク (2013年10月05日 16時09分)

あなただけが 生きがいなの
お願い お願い 捨てないで
テナコト言われて その気になって
三日とあけずに キャバレーへ
金のなる木が あるじゃなし
質屋通いは 序の口で
退職金まで 前借りし
貢いだあげくが
ハイ それまでョ
フザケヤガッテ フザケヤガッテ
フザケヤガッテ コノヤロー

この車は 掘り出しもの
絶対買物 大丈夫
テナコト言われて その気になって
三度の食事を 二度につめ
せっかくためた へそくりを
すっかりはたいて かってみりゃ
みてくればかりの ポンコツで
ガタンと止まって
ハイ それまでョ
フザケヤガッテ フザケヤガッテ
フザケヤガッテ コノヤロー

私だけが あなたの妻
丈夫で長持ち いたします
テナコト言われて その気になって
女房にしたのが 大まちがい
炊事せんたく まるでダメ
食べることだけ 三人前
ひとこと小言を 言ったらば
プイと出たきり
ハイ それまでョ
フザケヤガッテ フザケヤガッテ
フザケヤガッテ コノヤロー
泣けてくる
【20】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

大丈夫か?こいつ (2013年10月05日 12時30分)

朝の4時から大丈夫か?お前?

お前は助けに入らなかったことが反省点だと抜かしやがったが

あれ以上は、更に板が荒れるだろ?荒らしのお前には分かんねーよな!

一生、ここでゴネてろ!ここから出てくるな!基地外野郎!
【19】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

笑夏’ (2013年10月05日 09時26分)

カンパチさん、トピ開設おめでとうございます(^_^)

ロムさせてもらいますね。

気長に続けて行って下さい(^-^)/

で、ベルガーって、どのベルガーですか?
たくさんいるみたいなので…
【17】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

のほSEIL☆ (2013年10月05日 09時04分)

カンパチさん


おはようございます。

■まずは、トピ立ち上げ、おめでとうございます。
 ご自分が自由に書きこめる場所、大事にしてください。

 OLGへのお気遣いもあってのことと推察いたします。
 幹事長として深謀に感謝いたします。
 
 とりいそぎ。

のほSEIL☆
【16】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 07時59分)

≪ページ14≫


子供が親を頼りにするように、リーダーに対する心理的依存が生じる。こうして、普通の人は、いったん集団の一員となるや、たちまちにして情動的退行を引き起こす。

集団療法の指導に当たるセラピストの立場からすると、この種の退行は好ましいものではない。心理療法家の仕事というのは、突き詰めていけば、患者の成熟を促し、助け、大きく発展させることである。したがって、グループ・セラピストの仕事の多くは、グループ内における患者の依存心にあい対し、これに疑義を呈し、その後で自分は身を引き、患者自身が指導者としての立場を引き受け、これによって集団環境の中で成熟した力を発揮する方法を学ぶようにすることである。

グループのメンバー全員が、それぞれの独自の能力に従って、グループの指導的立場を平等に引き受けるようになったときに、そのグループセラピーは成功する。理想的な成熟性を備えたセラピー・グループとは、グループ全体がリーダーで構成されているようなグループのことである。

もっとも、集団の多くが精神療法(心理療法)または個人の成長を目的として存在するわけではない。バーカー任務部隊C中隊の第一小隊は、リーダーを育てるためのものではなく、ベトコンを殺すことを目的とした集団である。というより、そうした目的があるからこそ、軍隊は、セラピー・グループとは本質的に反対の集団指導スタイルを考え出し、これを育ててきたのである。

古くから言われてきたことであるが、兵隊はものを考えるべきではないとされている。隊長はグループ内で選ばれるわけでなく、上層部から指名され、意識的に権威の象徴を身にまとうものである。

服従が軍の規律の第一のものとされている。隊長に対する兵隊の依存は、単に奨励されるというだけでなく、絶対命令となっている。軍隊というものは、その使命の性格からして、集団内の個人の自然発生的退行依存を意図的に助長し、おそらくは、現実にこれを育てているものと思われる。
【15】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 07時56分)

≪ページ13≫

『集団の力学―――依存心とナルシシズム』

人間はストレスを受けたときに退行するだけでなく、集団環境の中においても退行を見せるものである。これが信じられないというのであれば、ライオンズ・クラブの集会やカレッジの同窓会を見ればうなずけるはずである。

この退行の一つの現われとして、リーダーに対する依存心という事象が挙げられる。これは驚くほど明白に現れる。互いに知らない人達の小集団、例えば10数人程度のグループが集まったときに、まず最初に何が起こるかといえば、その中の1人か2人の人間がすばやくグループのリーダー役を買って出ることである。

これは、意識的に選ぶといった合理的過程を経て行われるわけではない。ごく自然な形で、自然発生的、無意識的に起こるものである。なぜ、こうしたことがすばやく、しかも容易に行われるのであろうか。

その原因の一つとしてあげられるのが、言うまでもなく、他の人達に比べてリーダー役に適している人間、あるいは、リーダーになりたいという欲求の強い人間がいるということである。

しかし、これとは逆の、より基本的な原因もある。つまり、大半の人達は、リーダーとなるよりはむしろ追随者となることを好むという事実である。これは、何よりもまず、怠惰の問題として考えることができる。

人に従うことは容易なことである。指導者となるよりは追随者となるほうがはるかに楽なことである。複雑な決定を下すに当たって苦悩したり、前もって計画を立てたり、率先して物事を行ったり、不評を買う危険を冒したり、あるいは勇気をふるったりする必要がないからである。

追随者の役割を演じるということは、子供の役を演じることである。成人した人間は、個人としては船長であり、自分の運命を決定する支配者である。ところが、追随者としての役割を演じているときには、自分の支配力、つまり、自分自身に対する権威、意思決定者としての自分の成熟性を指導者に譲り渡してしまう。
【14】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 07時56分)

では、続き。
【13】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時12分)

≪ページ12≫

50人から500人もの人間(その中で邪悪な人間はほんの一握りだったと思われる)の集団が、ソンミ村虐殺のような残虐行為を行うなどということがなぜ起こるのか、との疑問を我々は抱く。

これに対する一つの答えとして、バーカー任務部隊の隊員たちは、彼らが被っていた慢性的ストレスのせいでより未成熟な状態に退行し、そのため、通常の条件下にあるときより邪悪になっていたということができる。

善と悪の正常な分配が、ストレスのせいで悪の方向に移行していたのである。とはいえ、これは、ソンミ村事件の邪悪性を構成する数多くの要素の一つに過ぎない。

邪悪性とストレスの関係について考える以上、善とストレスの関係についても触れるべきだと思われる。苦労のないときに立派な振る舞いをする人、言うならば、順境のときの友、が、いざという時、あまり立派な行動を取らないこともある。したがって、ストレスとは善の試金石とも言うべきものである。

真の意味で善良な人とは、ストレス下にあっても自分の高潔さ、成熟性、感受性、思いやりを捨て去ることのない人のことである。高潔さとは、状況の悪化に反応して退行することなく、苦痛に直面して感覚を鈍らせることなく、苦悩に耐え、しかもそれによって影響を受けることの無い能力である、と定義することができるかもしれない。

「人間の偉大さを測る尺度の一つが、そして、おそらくは最良の尺度と思われるのが、苦しみに耐える能力である」ということができる。
【12】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時11分)

≪ページ11≫

しかしながら、ここで問題となることは、この自己まひのメカニズムがあまり選択的なものとは思えないことである。もし、我々が、ゴミの中で生活しているためにゴミに対する不快感を感じなくなるならば、我々自身がゴミを撒き散らす人間になる可能性がある。

自分の苦しみに対して無感覚になっていれば、他人の苦しみに対しても無感覚になりがちである。侮辱的な扱いを受け続けていれば、自分自身の尊厳に対する感覚を失うだけでなく、他人の尊厳に対する感覚をも失ってしまう。

切り裂かれた死体を見ることが気にならなくなれば、自分で死体を切り刻むことを気にしなくもなる。

つまり、残虐行為全体に対して目をつぶることなしに、ある特定の残虐行為だけを選んで目をつぶることはきわめて難しい、ということである。自分自身が残忍な人間になることなしに、残虐行為に対して無感覚になることはできないのである。

したがって、バーカー任務部隊が戦場で過ごした1ヶ月、貧弱な食物、乏しい睡眠、そして戦友の死や重傷が続いた1ヶ月、の後、ほとんどの兵隊たちが、心理的に未成熟な、原始的な、凶暴な状態に退行していたと考えることができる。

先に私はナルシシズムと邪悪性の関係について述べ、ナルシシズムというのは、通常は、人間がそこから抜け出して成熟する前の段階であると書いた。ということは、邪悪性というのは一種の未成熟の状態であると考えることができる。

未成熟な人間は成熟した人間より悪に走りやすい。我々は、子供の無邪気さだけでなく、その残酷さに驚かされることがある。ハエの羽をむしりとって喜ぶ大人はサディスティックな人間とみなされ、邪悪な人間ではないかと疑われる。これは当然のことである。

しかし、同じ事を行う4歳の子供は、注意されることはあっても、それは単なる好奇心からだとみなされる。12歳の子供がこれと同じ事をした場合には、心配の種となる。

我々人間が邪悪性やナルシシズムを抜け出して成長するものならば、また、ストレスに直面したときに退行を起こすのが普通だとするならば、我々人間は、ストレスを受けているときのほうが快適に過ごしているときよりも悪に走りやすい、ということができるのではなかろうか。私自身はそう考えている。
【11】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時10分)

≪ページ10≫

生まれ故郷とは反対の極にある世界に連れて行かれ、食物は貧弱で、害虫に悩まされ、暑気に気力を失わされ、およそ快適とは言いがたい場所で眠らされていた。しかも、絶えず危険に脅かされていた。この危険は、通常は、他の戦争のときほど大きなものではなかったとはいえ、予測不能のものであったために、より大きなストレスになっていたと思われる。

この危険は、夜間、兵隊たちが安全だと思っているときに迫撃砲攻撃という形で訪れたし、便所に行く道に仕掛けられた仕掛け爆弾、美しい小道を散策している兵隊の足を吹き飛ばす地雷、といった形で突然襲ってくるものだった。

あの日、バーカー任務部隊がミライ地区で目指す敵の姿を発見できなかったという事実も、ベトナムでの戦闘の性格を象徴的に物語るものである。ベトナム戦争の敵は、予期していないときに、予想もしていない場所に出没する敵である。

ストレスに対する人間の反応として、退行のほかにもう一つ、『防衛』と呼ばれるメカニズムがあげられる。広島その他の被災地の生存者について調査したロバート・ジェイ・リフトンは、これを『精神的まひ』と呼んでいる。

我々には、自分の情動的感覚があまりにも苦痛又は不快なものとなったときに、自分自身をまひさせる能力がある。これは単純なことである。

ズタズタに切り裂かれ、血にまみれた死体を一体だけ見たときには、我々は恐怖を覚える。しかし、そうした死体を来る日も来る日も身の回りに見ていると、恐ろしいことが当たり前となり、恐怖の感覚を失ってしまう。恐怖を簡単に無視するようになるのである。

つまり、恐怖を感じる能力が鈍り、もはや現実に血の色が『見えなく』なり、悪臭が『におわなく』なり、嫌悪感を『感じなく』なる。無意識のうちに自分自身をまひさせてしまうのである。

この情動的自己まひの能力は、当然、それなりの利点を持ったものではある。これは進化の過程を経て我々の中に組み込まれたメカニズムであり、我々の生存能力を高めてくれるものであることは疑いない。正常な感覚を維持していたならば気が変になるような恐ろしい状況下にあって、機能や役割を果たすことを可能にしてくれるのがこれである。
【10】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時10分)

≪ページ9≫

以下、この疑問に対する回答を探るに当たって個人のレベルから小集団のレベル、そしてさらに大きな集団のレベルへと段階を追ってその邪悪性について考えてみたい。


『集団の責任』

ストレス下の個人

私は16歳のときに、春休みを利用して4本の親知らずを全部抜いたことがある。抜歯後の5日間、私のあごは痛んだだけでなく、腫れ上がって口を開くこともできなかった。固形物を食べることはできず、口に入れることのできるのは液状のもの、あるいは味の無いベビーフードだけだった。おまけに、口の中には嫌な臭いのする血がいつもたまっていた。

その5日間というもの、私の心的機能の水準は3歳児程度に低下していた。つまり、完全に自己中心的になっていたのである。泣き言を言い、他人に当り散らしていた。他人が絶えず自分の面倒を見てくれることを期待していた。ちょっとしたことが自分の望むときに望みどおりに行われないと、目に涙があふれ、不機嫌が高じた。

長期間、例えば、1週間程度、苦痛や不快な状態に置かれたことのある人ならば、このときの私の経験したことが思い当たるはずである。不快な状況に長期間置かれている人間は、当然のことながら、ほぼ不可避的に退行を示すものである。心理的成長が逆行し、成熟性が放棄されるのである。

急激に幼児化し、より未開の状態に逆戻りする。不快感というのはストレスである。ここで私が言わんとしているのは、人間という有機体組織は長期のストレスに反応して退行する傾向があるということである。

作戦地帯の兵隊の生活は慢性的なストレス状態にある。軍は、可能なときには娯楽を与え、休息やレクリエーションのための期間を設けるなどして、ベトナムに送られた部隊のストレスを最小限に抑えるためにできるだけのことをしていたが、現実には、バーカー任務部隊の隊員は慢性的なストレスの下に置かれていた。
【9】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時09分)

≪ページ8≫

脱営すること自体が大きな犯罪とされている。

したがって、軍籍にある者は軍に縛り付けられている。というより、自分の所属するグループに縛り付けられるものである。それだけでなく、軍というものは、きわめて巧妙なやり方でその階層内の集団の圧力を強めている。

集団の力学、特に軍人集団の力学という観点から考えるならば、バーカー任務部隊の隊員がこの集団犯罪を他に漏らさなかったというのも、特に奇妙なことではない。また、この犯罪を報告した人間がバーカー任務部隊に所属する隊員ではなく、しかも除隊後にようやくこれを報告したという事実も、別に驚くには当たらない。

にもかかわらず、あれほど長い期間この犯罪が外部に知られることなく過ぎたことには、今ひとつ、きわめて重大な理由があったと私は考えている。関係者に直接面接したわけでもない私としては単なる憶測として語る以外に無いが、しかし、当時ベトナムに送られた数多くの兵隊と語る機会を私は得ており、当時の軍内部を支配していたものの考え方については知り尽くしているつもりである。

バーカー任務部隊の隊員が自分たちの犯した犯罪を告白しなかったのは、ある程度までは、自分たちが犯罪を犯したという「意識」が彼らに無かったからではないか、というのが私の抱いている大きな疑念である。

無論、自分たちの犯した行為については彼らも知っている。しかし、その自分の行った行為の重大性や性格を彼らが十分認識していたかどうかとなると、これはまったく別である。中には自分の罪の意識を隠していた者もいたとは思われる。しかし、それ以外の大勢の人間は、隠すべき罪の意識すら持っていなかったのではないかと私は疑っている。

なぜ、こうしたことが起こるのだろうか。正気の人間が殺人を犯し、にもかかわらず自分が殺人を犯したことに気づかないなどということが、なぜ起こるのだろうか。

基本的には、邪悪でもない人間が、自分のしたことに気づきもせずに大きな悪に加担するというのは、どういうことなのだろうか。これこそ、個人の悪と集団の悪の関係を語る上で焦点となる疑問である。
【8】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時09分)

≪ページ7≫
この二つの犯罪は互いに密接に絡み合ったものである。虐殺そのものに比べれば隠ぺい工作のほうが凶悪性の程度が低いように思われるかもしれないが、これは表裏一体のものである。これほど多くの人間が、これほど大きな悪に加担しながら、良心の痛みから告白しようという気持ちすら抱かなかったのはなぜだろうか。

隠ぺいというのは集団の大きな虚偽である。うそというのは悪の症候の一つであると同時にその原因の一つでもある。つまり、悪の花であると同時に悪の根ともなっているものである。これまで、この本では、虚偽の人々の一人、つまり虚偽の個人について考えてきたが、ここではこの虚偽の人々の総体について考えてみたい。

この隠ぺいには異常なほど結束した加担、すなわち、共同体的参加が見られるため、バーガー任務部隊の隊員全員が「虚偽の人々」であったということができる。というより、今考えてみると、少なくともベトナム戦争当時のアメリカ国民全体が虚偽の人々であったと結論付けることができる。

すべてのうそがそうであるように、隠ぺいの第一の動機となるのは恐怖である。犯罪を犯した人間(引き金を引いた人間、あるいは、その命令を下した人間)は、当然、自分の行った行為が伝わることを恐れる。彼らを待ち構えているのは軍法会議である。

しかし、ただ殺戮を目撃しただけの人間の数のほうがはるかに多いはずで、こうした人達が「暗い、血なまぐさい行為があった」ことについて何も語っていないのはどういうわけだろうか。彼らは何を恐れていたのだろうか。

バーカー任務部隊の隊員にとって、この犯罪を外部に知らせるには大きな勇気が必要だったことは理解できることである。これをすれば、「たれこみ屋」「スパイ」といったレッテルを貼られることは間違いない。そうしたレッテルを貼られることほど恐ろしいことはない。

スパイは殺されることが多い。少なくとも村八分の扱いを受けることは間違いない。一般のアメリカ市民であれば、村八分もそれほど恐ろしいことではないかもしれない。「一つの集団から追い出されたら別の集団に加わればいい」というのが一般市民の反応かもしれない。

しかし、軍隊というものは、簡単に別の集団に加わればいいというようなものでないことを忘れてはならない。兵役期間が満了するまでは軍を離れることもできない。
【7】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時09分)

≪ページ6≫

は、良心の分散化である。

ベトナム戦争当時、仮に私が国防総省の廊下をうろつき、ナパームの製造や、それを爆弾の形でベトナムに持ち込む命令を下した責任者に語りかけ、ベトナム戦争の道徳性、そして彼らが行っていることの道徳性に対する疑問を投げかけたとすると、間違いなくこういう返事が返ってきたと思う。

「君が心配していることはよく分かる。しかし、君は質問の相手を間違えていると思う。ここは軍需部門で、我々は兵器の供給を行っているだけだ。それがどう使われるか、どこで使われるかを決定しているわけではない。それは政策の問題だ。廊下の向こうにある政策部門の人間に質問してくれ」。

私がその人の言うとおりに政策部門に同じ質問をしたとする。その返事はこうなると思う。

「確かにこれには大きな問題のあることは分かるが、しかし、これは我々の権限外の問題だと思う。我々は、いかに戦争を行うべきかを決定しているだけであって、戦争を行うべきかどうかを決定しているわけではない。軍というのは行政府の一機関に過ぎない。やれといわれたことを軍はやっているに過ぎない。そういう大きな問題はホワイトハウス・レベルの決めることで、軍の決めることではない。君の質問の相手はホワイトハウスだ」。

かくして、以下、同じことの繰り返しとなるはずである。

集団の中の個人の役割が専門化しているときには、常に、個人の道徳的責任が集団の他の部分に転嫁される可能性があり、また、転嫁されがちである。そうした形で個人が自分の良心を捨て去るだけでなく、集団全体の良心が分散、希釈化され、良心が存在しないも同然の状態となる。

いかなる集団といえども、不可避的に、良心を欠いた邪悪なものになる可能性を持っているものであり、結局は、個々の人間が、それぞれ自分の属している集団・組織全体の行動に直接責任を持つ時代が来るのを待つ以外に道は無い。我々はまだ、そうした段階に到達する道を歩み始めてすらいない。

この集団の心理学的未成熟性を念頭に置いた上で、ソンミ村事件の二つの面、すなわち、虐殺事件そのものと、その隠ぺいという二つの犯罪について考えてみたい。
【6】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時08分)

≪ページ5≫

悪とはいくぶん違ったものとしての『集団の悪』という事象を中心に考えてみたいと思う。

個人の悪と集団の悪の関係は取り立てて新しい研究テーマというわけではない。

人間の集団の行動は人間の個人のそれに極めて似た形を取るものだと私は常々考えている。ただ、集団の行動は、個人の行動に比べて、想像以上に原始的かつ未成熟なレベルにある。なぜそうなのか、なぜ集団の行動が驚くほど未成熟なのか、また、なぜ人間の集団は、心理学的見地から見て、個人の集合以下の劣ったものになるのかは、私には答えることのできない疑問として残っている。

ただ、確信を持っていえることは、これに対する正しい解答はひとつだけではないということである。集団の未成熟性という事象は、精神医学用語で言うならば『過剰規定(多重規定)されている』ということができる。

つまり、これは複数の原因のもたらす結果だということである。この原因の一つとしてあげられるのが『専門化』という問題である。

集団のもつ最大の利点の一つが専門化である。集団の方が個人よりはるかに効率よく機能することが多い。ゼネラル・モーターズは、その従業員が重役、設計技師、工具・ダイス工、組み立てライン工というように専門家されているために膨大な数の車を製造できるのである。

我々が極めて高い生活を享受しているのも、ひとえに、我々の社会が専門化していることによるものである。私自身、この本を書く上で必要な知識や時間を得ているのも、他の仕事を農民、機械工、出版社、書籍販売業者といった人達に完全に依存し、専門家として働いているからである。

したがって、専門化自体が悪いことだとは考えられない。しかし、その一方では私は、現代の悪の多くはこの専門化に関係しており、専門化に対して我々は警戒心を身につける必要があると確信している。専門化については、原子炉に対して抱くと同じ程度の不信の念や安全対策を持って対処すべきだと私は考えている。

専門化は、様々なメカニズムによって、集団の未成熟性やその潜在的悪を助長するものである。ここでは、とりあえず、そうしたメカニズムの一つを上げるに留めておくが、それ
【5】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時08分)

≪ページ4≫

この委員会の調査勧告に対する拒絶は、様々な問題を象徴的に物語るものである。その一つとして、悪の性格について調査することは、調査対象となったものだけでなく、調査に当たる人間にとっても困惑を引き起こす、と言うことが上げられる。

仮に我々が人間の悪の性格の研究に当たったとしても、「悪人」と「我々普通の人間」とを明確に分離できるかどうかは疑わしい。結局は、我々人間の本性を研究することになる可能性が大である。これが、これまで悪の心理学が発展しなかった原因の一つとなっていることは疑いのないことである。


『個人の悪と集団の悪』

事件の現場で引き金を引いたのは一人一人の人間である。命令を下し、それを実行に移したのも個人である。結局のところ、人間の個々の行動は、すべて、個々の人間の選択の結果である。

ソンミ村虐殺に加わった個人、あるいはその隠ぺいに加わった個人の誰一人として、その罪を逃れることはできないはずである。ただ一人、殺戮をやめさせようとした勇敢かつ善良なヘリコプター・パイロットですら、目撃した事実を直属上官を超えて報告しようとしなかったということで、罪を負っていることになる。

これまで本書で述べてきたことは、主として、私が『邪悪』と呼んでいる特定の個人、つまり、私が『邪悪ではない』としているほかの大多数の個人とは区別された個人に付いてである。

この明確な区別がいくぶん専断的なものであることを認めるとしても、つまり、完全に邪悪な人間と全く邪悪でない人間の間に連続性のあることを認めるとしても、次のような疑問が残る。

つまり、その大半が個人としては邪悪ではないと思われる500人近くの人間の全員が、ソンミ村で行われたような非道な悪になぜ加わったのだろうか、と言う疑問である。

個人の邪悪性や個人の行動の選択のみに目を向けていては、この事件を理解できないことは明らかである。そのため、ここでは、多くの面で類似性があるとはいうものの、個人の
【4】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時07分)

≪ページ3≫
ー・パイロットである。

何が行われていたかは、空中からも見て取ることができた。彼はヘリコプターを着陸させて、隊員たちを説得しようとしたが、これは、無駄だった。再びヘリコプターを離陸させた彼は、司令部の上級将校に無線で連絡したが、この将校は関心を示さなかったと言う。あきらめた彼は、そのまま自分の任務に戻った。

虐殺に加わった隊員の数は推定に頼るしかないが、おそらく、実際に引き金を引いた者の数は50人程度であったろうと思われる。しかし、200名近くの者がこの殺戮を直接目撃している。(後に告発されたのは25名であるが、そのうち裁判に掛けられたのはわずか6名で、有罪となったのはカリー中尉ただ一人である)。

また、この戦争犯罪が行われたことは、バーガー任務部隊の少なくとも500名の隊員の間に、その週のうちに知れ渡っていたはずだと推測することができる。

犯罪の通報が行われなかったこと自体が犯罪である。バーガー任務部隊の隊員は、翌年になっても、誰一人としてこのミライ地区で起こった虐殺行為を報告しようとしていない。こうした犯罪は『隠ぺい』と呼ばれる。

アメリカ国民がこの事件に付いて知るようになったのは、事件後1年以上も過ぎた1969年3月末のことで、ロン・ライドナーという一人の兵隊が、この残虐行為について数人の議会議員に手紙を送ったことによる。

この兵隊はバーガー任務部隊の隊員ではなかったが、ミライ地区進撃に加わった数人の戦友たちとの雑談中に事件の話を聞き、除隊3ヵ月後にその手紙を書いたものである。

1972年の春、私は、陸軍参謀総長の要請により、陸軍軍医総監が任命した3人の精神科医からなる委員会の委員長を命ぜられた。この委員会は、ソンミ村虐殺事件の心理学的原因を究明するための調査を勧告し、こうした残虐行為を今後防止しようという趣旨で設けられた委員会である。

しかし、われわれの提案した調査は陸軍参謀部によって拒否された。伝えられるところによると、その理由は、こうした調査を秘密裏に行うことは不可能であり、結局は現政権を窮地に陥れる結果となり、「現時点において、これ以上の混乱は望ましくない」というものだったと言う。
【3】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時07分)

≪ページ2≫
ジュネーブ協定には、非戦闘員に危害を加えること、あるいは、戦闘員であっても、傷病のために武器を捨てた者に危害を加えることは犯罪とされている。

彼らがこの協定を十分に知っていたかどうかはともかくとして、少なくとも一部の隊員の中には、『合衆国陸軍野戦教範』にある地上戦に関する規則を知らない者もいたと考えられる。

これには、ジュネーブ協定に反する命令は不当な命令であり、そうした命令に従ってはならないと規定されている。

バーガー任務部隊の隊員は、基本的には、全員が何らかの形で作戦に参加することになっていたが、直接、作戦行動に当たっていたのは第十一軽歩兵旅団歩兵第二十連隊第一大隊のC中隊である。

この中隊がミライ地区の集落に進撃したときには一人の敵戦闘員の発見もできなかった。つまり、武装しているベトナム人は全く見当たらなかったのである。また、中隊に対して発砲する者もいなかった。そこにいたのは、武器を持たない女、子供、それに老人だけだった。

事件の一部は不明のままとなっているが、ただ、明らかなことは、このC中隊の隊員が少なくとも500人から600人の武器を持たない村民を殺したと言うことである。

村民たちは、様々な形で殺されている。ある場合には、隊員が民家の戸口に立ち、家の中に小銃を乱射して中にいた人間をやみくもに殺している。他の例では、逃げ出そうとした村民が子供を含めて撃ち殺されている。

最大の殺戮はミライ第四地区の集落で起こったものである。この集落では、ウィリアム・L・カリー中尉の率いる第一小隊が、村民を20人から40人ほどのグループに分け、小銃、機関銃、あるいは手投げ弾で殺している。

もっとも、ミライ地区内のほかの集落でも、他の将校の指揮下にあった小隊がかなりの数の非武装住民を殺していることを忘れてはならない。

殺戮は長時間にわたって行われ、午前中いっぱい続いたが、これを制止しようとした人間が一人だけいる。この策敵掃討作戦を支援するために飛行していた四等准尉のヘリコプタ
【2】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時06分)

≪ページ1≫

『ソンミ村虐殺事件』

1968年3月16日、バーガー任務部隊(機動部隊)の一小隊が南ベトナム、クアンガイ省(現キアビン省)ソンミ村のミライ地区と呼ばれていた一群の集落に進撃した。

小隊の任務は典型的な『策敵掃討』、つまり、ベトコン(南ベトナム民族解放戦線)兵士を見つけ出し、これを殲滅することだった。

このバーガー任務部隊は、ベトナムで行動していた他の部隊に比べてとぢらかと言えば急ごしらえの寄せ集めの隊で、それまで何の軍功も上げていなかった。

敵と交戦することもなく、地雷や仕掛け爆弾で隊内にかなりの数の死傷者を出していた。

クアンガイ省はベトコンの拠点と考えられており、一般住民もほぼ共産ゲリラの支配下又は影響下にあるとされていた。住民はゲリラを支援幇助し、そのため、戦闘員と非戦闘員の区別が付けにくいと一般に考えられていた。

したがって、アメリカ兵たちは、この地区のベトナム人に憎しみを抱き、住民を信用していなかった。陸軍情報部によると、ベトコンはミライ地区の住民にかくまわれているとの事で、そのため、地区内に潜んでいるベトコン戦闘員を見つけ出すのがこの部隊の任務とされていた。

作戦の前夜には予感のようなものがあり、ようやくにして部隊が敵と交戦し、進撃の目的を果たすことができる、とのムードが隊員たちを支配していた。

その夜、下士官や下級将校に与えられた上層部からの指令は、戦闘員と非戦闘員の区別については、せいぜい、あいまいなものでしかなかった。全隊員がジュネーブ協定を十分に心得ていることにはなっていた。
【1】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時04分)

とりあえず、

M・スコット・ペック著『平気でうそをつく人達』より

第5章【集団の悪について】

を最初から、再掲載します。
4  3  2  1 
メンバー登録 | プロフィール編集 | 利用規約 | 違反投稿を見付けたら