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RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時11分)

≪ページ11≫

しかしながら、ここで問題となることは、この自己まひのメカニズムがあまり選択的なものとは思えないことである。もし、我々が、ゴミの中で生活しているためにゴミに対する不快感を感じなくなるならば、我々自身がゴミを撒き散らす人間になる可能性がある。

自分の苦しみに対して無感覚になっていれば、他人の苦しみに対しても無感覚になりがちである。侮辱的な扱いを受け続けていれば、自分自身の尊厳に対する感覚を失うだけでなく、他人の尊厳に対する感覚をも失ってしまう。

切り裂かれた死体を見ることが気にならなくなれば、自分で死体を切り刻むことを気にしなくもなる。

つまり、残虐行為全体に対して目をつぶることなしに、ある特定の残虐行為だけを選んで目をつぶることはきわめて難しい、ということである。自分自身が残忍な人間になることなしに、残虐行為に対して無感覚になることはできないのである。

したがって、バーカー任務部隊が戦場で過ごした1ヶ月、貧弱な食物、乏しい睡眠、そして戦友の死や重傷が続いた1ヶ月、の後、ほとんどの兵隊たちが、心理的に未成熟な、原始的な、凶暴な状態に退行していたと考えることができる。

先に私はナルシシズムと邪悪性の関係について述べ、ナルシシズムというのは、通常は、人間がそこから抜け出して成熟する前の段階であると書いた。ということは、邪悪性というのは一種の未成熟の状態であると考えることができる。

未成熟な人間は成熟した人間より悪に走りやすい。我々は、子供の無邪気さだけでなく、その残酷さに驚かされることがある。ハエの羽をむしりとって喜ぶ大人はサディスティックな人間とみなされ、邪悪な人間ではないかと疑われる。これは当然のことである。

しかし、同じ事を行う4歳の子供は、注意されることはあっても、それは単なる好奇心からだとみなされる。12歳の子供がこれと同じ事をした場合には、心配の種となる。

我々人間が邪悪性やナルシシズムを抜け出して成長するものならば、また、ストレスに直面したときに退行を起こすのが普通だとするならば、我々人間は、ストレスを受けているときのほうが快適に過ごしているときよりも悪に走りやすい、ということができるのではなかろうか。私自身はそう考えている。
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RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時10分)

≪ページ10≫

生まれ故郷とは反対の極にある世界に連れて行かれ、食物は貧弱で、害虫に悩まされ、暑気に気力を失わされ、およそ快適とは言いがたい場所で眠らされていた。しかも、絶えず危険に脅かされていた。この危険は、通常は、他の戦争のときほど大きなものではなかったとはいえ、予測不能のものであったために、より大きなストレスになっていたと思われる。

この危険は、夜間、兵隊たちが安全だと思っているときに迫撃砲攻撃という形で訪れたし、便所に行く道に仕掛けられた仕掛け爆弾、美しい小道を散策している兵隊の足を吹き飛ばす地雷、といった形で突然襲ってくるものだった。

あの日、バーカー任務部隊がミライ地区で目指す敵の姿を発見できなかったという事実も、ベトナムでの戦闘の性格を象徴的に物語るものである。ベトナム戦争の敵は、予期していないときに、予想もしていない場所に出没する敵である。

ストレスに対する人間の反応として、退行のほかにもう一つ、『防衛』と呼ばれるメカニズムがあげられる。広島その他の被災地の生存者について調査したロバート・ジェイ・リフトンは、これを『精神的まひ』と呼んでいる。

我々には、自分の情動的感覚があまりにも苦痛又は不快なものとなったときに、自分自身をまひさせる能力がある。これは単純なことである。

ズタズタに切り裂かれ、血にまみれた死体を一体だけ見たときには、我々は恐怖を覚える。しかし、そうした死体を来る日も来る日も身の回りに見ていると、恐ろしいことが当たり前となり、恐怖の感覚を失ってしまう。恐怖を簡単に無視するようになるのである。

つまり、恐怖を感じる能力が鈍り、もはや現実に血の色が『見えなく』なり、悪臭が『におわなく』なり、嫌悪感を『感じなく』なる。無意識のうちに自分自身をまひさせてしまうのである。

この情動的自己まひの能力は、当然、それなりの利点を持ったものではある。これは進化の過程を経て我々の中に組み込まれたメカニズムであり、我々の生存能力を高めてくれるものであることは疑いない。正常な感覚を維持していたならば気が変になるような恐ろしい状況下にあって、機能や役割を果たすことを可能にしてくれるのがこれである。
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RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時10分)

≪ページ9≫

以下、この疑問に対する回答を探るに当たって個人のレベルから小集団のレベル、そしてさらに大きな集団のレベルへと段階を追ってその邪悪性について考えてみたい。


『集団の責任』

ストレス下の個人

私は16歳のときに、春休みを利用して4本の親知らずを全部抜いたことがある。抜歯後の5日間、私のあごは痛んだだけでなく、腫れ上がって口を開くこともできなかった。固形物を食べることはできず、口に入れることのできるのは液状のもの、あるいは味の無いベビーフードだけだった。おまけに、口の中には嫌な臭いのする血がいつもたまっていた。

その5日間というもの、私の心的機能の水準は3歳児程度に低下していた。つまり、完全に自己中心的になっていたのである。泣き言を言い、他人に当り散らしていた。他人が絶えず自分の面倒を見てくれることを期待していた。ちょっとしたことが自分の望むときに望みどおりに行われないと、目に涙があふれ、不機嫌が高じた。

長期間、例えば、1週間程度、苦痛や不快な状態に置かれたことのある人ならば、このときの私の経験したことが思い当たるはずである。不快な状況に長期間置かれている人間は、当然のことながら、ほぼ不可避的に退行を示すものである。心理的成長が逆行し、成熟性が放棄されるのである。

急激に幼児化し、より未開の状態に逆戻りする。不快感というのはストレスである。ここで私が言わんとしているのは、人間という有機体組織は長期のストレスに反応して退行する傾向があるということである。

作戦地帯の兵隊の生活は慢性的なストレス状態にある。軍は、可能なときには娯楽を与え、休息やレクリエーションのための期間を設けるなどして、ベトナムに送られた部隊のストレスを最小限に抑えるためにできるだけのことをしていたが、現実には、バーカー任務部隊の隊員は慢性的なストレスの下に置かれていた。
【9】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時09分)

≪ページ8≫

脱営すること自体が大きな犯罪とされている。

したがって、軍籍にある者は軍に縛り付けられている。というより、自分の所属するグループに縛り付けられるものである。それだけでなく、軍というものは、きわめて巧妙なやり方でその階層内の集団の圧力を強めている。

集団の力学、特に軍人集団の力学という観点から考えるならば、バーカー任務部隊の隊員がこの集団犯罪を他に漏らさなかったというのも、特に奇妙なことではない。また、この犯罪を報告した人間がバーカー任務部隊に所属する隊員ではなく、しかも除隊後にようやくこれを報告したという事実も、別に驚くには当たらない。

にもかかわらず、あれほど長い期間この犯罪が外部に知られることなく過ぎたことには、今ひとつ、きわめて重大な理由があったと私は考えている。関係者に直接面接したわけでもない私としては単なる憶測として語る以外に無いが、しかし、当時ベトナムに送られた数多くの兵隊と語る機会を私は得ており、当時の軍内部を支配していたものの考え方については知り尽くしているつもりである。

バーカー任務部隊の隊員が自分たちの犯した犯罪を告白しなかったのは、ある程度までは、自分たちが犯罪を犯したという「意識」が彼らに無かったからではないか、というのが私の抱いている大きな疑念である。

無論、自分たちの犯した行為については彼らも知っている。しかし、その自分の行った行為の重大性や性格を彼らが十分認識していたかどうかとなると、これはまったく別である。中には自分の罪の意識を隠していた者もいたとは思われる。しかし、それ以外の大勢の人間は、隠すべき罪の意識すら持っていなかったのではないかと私は疑っている。

なぜ、こうしたことが起こるのだろうか。正気の人間が殺人を犯し、にもかかわらず自分が殺人を犯したことに気づかないなどということが、なぜ起こるのだろうか。

基本的には、邪悪でもない人間が、自分のしたことに気づきもせずに大きな悪に加担するというのは、どういうことなのだろうか。これこそ、個人の悪と集団の悪の関係を語る上で焦点となる疑問である。
【8】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時09分)

≪ページ7≫
この二つの犯罪は互いに密接に絡み合ったものである。虐殺そのものに比べれば隠ぺい工作のほうが凶悪性の程度が低いように思われるかもしれないが、これは表裏一体のものである。これほど多くの人間が、これほど大きな悪に加担しながら、良心の痛みから告白しようという気持ちすら抱かなかったのはなぜだろうか。

隠ぺいというのは集団の大きな虚偽である。うそというのは悪の症候の一つであると同時にその原因の一つでもある。つまり、悪の花であると同時に悪の根ともなっているものである。これまで、この本では、虚偽の人々の一人、つまり虚偽の個人について考えてきたが、ここではこの虚偽の人々の総体について考えてみたい。

この隠ぺいには異常なほど結束した加担、すなわち、共同体的参加が見られるため、バーガー任務部隊の隊員全員が「虚偽の人々」であったということができる。というより、今考えてみると、少なくともベトナム戦争当時のアメリカ国民全体が虚偽の人々であったと結論付けることができる。

すべてのうそがそうであるように、隠ぺいの第一の動機となるのは恐怖である。犯罪を犯した人間(引き金を引いた人間、あるいは、その命令を下した人間)は、当然、自分の行った行為が伝わることを恐れる。彼らを待ち構えているのは軍法会議である。

しかし、ただ殺戮を目撃しただけの人間の数のほうがはるかに多いはずで、こうした人達が「暗い、血なまぐさい行為があった」ことについて何も語っていないのはどういうわけだろうか。彼らは何を恐れていたのだろうか。

バーカー任務部隊の隊員にとって、この犯罪を外部に知らせるには大きな勇気が必要だったことは理解できることである。これをすれば、「たれこみ屋」「スパイ」といったレッテルを貼られることは間違いない。そうしたレッテルを貼られることほど恐ろしいことはない。

スパイは殺されることが多い。少なくとも村八分の扱いを受けることは間違いない。一般のアメリカ市民であれば、村八分もそれほど恐ろしいことではないかもしれない。「一つの集団から追い出されたら別の集団に加わればいい」というのが一般市民の反応かもしれない。

しかし、軍隊というものは、簡単に別の集団に加わればいいというようなものでないことを忘れてはならない。兵役期間が満了するまでは軍を離れることもできない。
【7】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時09分)

≪ページ6≫

は、良心の分散化である。

ベトナム戦争当時、仮に私が国防総省の廊下をうろつき、ナパームの製造や、それを爆弾の形でベトナムに持ち込む命令を下した責任者に語りかけ、ベトナム戦争の道徳性、そして彼らが行っていることの道徳性に対する疑問を投げかけたとすると、間違いなくこういう返事が返ってきたと思う。

「君が心配していることはよく分かる。しかし、君は質問の相手を間違えていると思う。ここは軍需部門で、我々は兵器の供給を行っているだけだ。それがどう使われるか、どこで使われるかを決定しているわけではない。それは政策の問題だ。廊下の向こうにある政策部門の人間に質問してくれ」。

私がその人の言うとおりに政策部門に同じ質問をしたとする。その返事はこうなると思う。

「確かにこれには大きな問題のあることは分かるが、しかし、これは我々の権限外の問題だと思う。我々は、いかに戦争を行うべきかを決定しているだけであって、戦争を行うべきかどうかを決定しているわけではない。軍というのは行政府の一機関に過ぎない。やれといわれたことを軍はやっているに過ぎない。そういう大きな問題はホワイトハウス・レベルの決めることで、軍の決めることではない。君の質問の相手はホワイトハウスだ」。

かくして、以下、同じことの繰り返しとなるはずである。

集団の中の個人の役割が専門化しているときには、常に、個人の道徳的責任が集団の他の部分に転嫁される可能性があり、また、転嫁されがちである。そうした形で個人が自分の良心を捨て去るだけでなく、集団全体の良心が分散、希釈化され、良心が存在しないも同然の状態となる。

いかなる集団といえども、不可避的に、良心を欠いた邪悪なものになる可能性を持っているものであり、結局は、個々の人間が、それぞれ自分の属している集団・組織全体の行動に直接責任を持つ時代が来るのを待つ以外に道は無い。我々はまだ、そうした段階に到達する道を歩み始めてすらいない。

この集団の心理学的未成熟性を念頭に置いた上で、ソンミ村事件の二つの面、すなわち、虐殺事件そのものと、その隠ぺいという二つの犯罪について考えてみたい。
【6】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時08分)

≪ページ5≫

悪とはいくぶん違ったものとしての『集団の悪』という事象を中心に考えてみたいと思う。

個人の悪と集団の悪の関係は取り立てて新しい研究テーマというわけではない。

人間の集団の行動は人間の個人のそれに極めて似た形を取るものだと私は常々考えている。ただ、集団の行動は、個人の行動に比べて、想像以上に原始的かつ未成熟なレベルにある。なぜそうなのか、なぜ集団の行動が驚くほど未成熟なのか、また、なぜ人間の集団は、心理学的見地から見て、個人の集合以下の劣ったものになるのかは、私には答えることのできない疑問として残っている。

ただ、確信を持っていえることは、これに対する正しい解答はひとつだけではないということである。集団の未成熟性という事象は、精神医学用語で言うならば『過剰規定(多重規定)されている』ということができる。

つまり、これは複数の原因のもたらす結果だということである。この原因の一つとしてあげられるのが『専門化』という問題である。

集団のもつ最大の利点の一つが専門化である。集団の方が個人よりはるかに効率よく機能することが多い。ゼネラル・モーターズは、その従業員が重役、設計技師、工具・ダイス工、組み立てライン工というように専門家されているために膨大な数の車を製造できるのである。

我々が極めて高い生活を享受しているのも、ひとえに、我々の社会が専門化していることによるものである。私自身、この本を書く上で必要な知識や時間を得ているのも、他の仕事を農民、機械工、出版社、書籍販売業者といった人達に完全に依存し、専門家として働いているからである。

したがって、専門化自体が悪いことだとは考えられない。しかし、その一方では私は、現代の悪の多くはこの専門化に関係しており、専門化に対して我々は警戒心を身につける必要があると確信している。専門化については、原子炉に対して抱くと同じ程度の不信の念や安全対策を持って対処すべきだと私は考えている。

専門化は、様々なメカニズムによって、集団の未成熟性やその潜在的悪を助長するものである。ここでは、とりあえず、そうしたメカニズムの一つを上げるに留めておくが、それ
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RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時08分)

≪ページ4≫

この委員会の調査勧告に対する拒絶は、様々な問題を象徴的に物語るものである。その一つとして、悪の性格について調査することは、調査対象となったものだけでなく、調査に当たる人間にとっても困惑を引き起こす、と言うことが上げられる。

仮に我々が人間の悪の性格の研究に当たったとしても、「悪人」と「我々普通の人間」とを明確に分離できるかどうかは疑わしい。結局は、我々人間の本性を研究することになる可能性が大である。これが、これまで悪の心理学が発展しなかった原因の一つとなっていることは疑いのないことである。


『個人の悪と集団の悪』

事件の現場で引き金を引いたのは一人一人の人間である。命令を下し、それを実行に移したのも個人である。結局のところ、人間の個々の行動は、すべて、個々の人間の選択の結果である。

ソンミ村虐殺に加わった個人、あるいはその隠ぺいに加わった個人の誰一人として、その罪を逃れることはできないはずである。ただ一人、殺戮をやめさせようとした勇敢かつ善良なヘリコプター・パイロットですら、目撃した事実を直属上官を超えて報告しようとしなかったということで、罪を負っていることになる。

これまで本書で述べてきたことは、主として、私が『邪悪』と呼んでいる特定の個人、つまり、私が『邪悪ではない』としているほかの大多数の個人とは区別された個人に付いてである。

この明確な区別がいくぶん専断的なものであることを認めるとしても、つまり、完全に邪悪な人間と全く邪悪でない人間の間に連続性のあることを認めるとしても、次のような疑問が残る。

つまり、その大半が個人としては邪悪ではないと思われる500人近くの人間の全員が、ソンミ村で行われたような非道な悪になぜ加わったのだろうか、と言う疑問である。

個人の邪悪性や個人の行動の選択のみに目を向けていては、この事件を理解できないことは明らかである。そのため、ここでは、多くの面で類似性があるとはいうものの、個人の
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RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時07分)

≪ページ3≫
ー・パイロットである。

何が行われていたかは、空中からも見て取ることができた。彼はヘリコプターを着陸させて、隊員たちを説得しようとしたが、これは、無駄だった。再びヘリコプターを離陸させた彼は、司令部の上級将校に無線で連絡したが、この将校は関心を示さなかったと言う。あきらめた彼は、そのまま自分の任務に戻った。

虐殺に加わった隊員の数は推定に頼るしかないが、おそらく、実際に引き金を引いた者の数は50人程度であったろうと思われる。しかし、200名近くの者がこの殺戮を直接目撃している。(後に告発されたのは25名であるが、そのうち裁判に掛けられたのはわずか6名で、有罪となったのはカリー中尉ただ一人である)。

また、この戦争犯罪が行われたことは、バーガー任務部隊の少なくとも500名の隊員の間に、その週のうちに知れ渡っていたはずだと推測することができる。

犯罪の通報が行われなかったこと自体が犯罪である。バーガー任務部隊の隊員は、翌年になっても、誰一人としてこのミライ地区で起こった虐殺行為を報告しようとしていない。こうした犯罪は『隠ぺい』と呼ばれる。

アメリカ国民がこの事件に付いて知るようになったのは、事件後1年以上も過ぎた1969年3月末のことで、ロン・ライドナーという一人の兵隊が、この残虐行為について数人の議会議員に手紙を送ったことによる。

この兵隊はバーガー任務部隊の隊員ではなかったが、ミライ地区進撃に加わった数人の戦友たちとの雑談中に事件の話を聞き、除隊3ヵ月後にその手紙を書いたものである。

1972年の春、私は、陸軍参謀総長の要請により、陸軍軍医総監が任命した3人の精神科医からなる委員会の委員長を命ぜられた。この委員会は、ソンミ村虐殺事件の心理学的原因を究明するための調査を勧告し、こうした残虐行為を今後防止しようという趣旨で設けられた委員会である。

しかし、われわれの提案した調査は陸軍参謀部によって拒否された。伝えられるところによると、その理由は、こうした調査を秘密裏に行うことは不可能であり、結局は現政権を窮地に陥れる結果となり、「現時点において、これ以上の混乱は望ましくない」というものだったと言う。
【3】

RE:カンパチ・ベルガー  評価

カンパチ (2013年10月05日 04時07分)

≪ページ2≫
ジュネーブ協定には、非戦闘員に危害を加えること、あるいは、戦闘員であっても、傷病のために武器を捨てた者に危害を加えることは犯罪とされている。

彼らがこの協定を十分に知っていたかどうかはともかくとして、少なくとも一部の隊員の中には、『合衆国陸軍野戦教範』にある地上戦に関する規則を知らない者もいたと考えられる。

これには、ジュネーブ協定に反する命令は不当な命令であり、そうした命令に従ってはならないと規定されている。

バーガー任務部隊の隊員は、基本的には、全員が何らかの形で作戦に参加することになっていたが、直接、作戦行動に当たっていたのは第十一軽歩兵旅団歩兵第二十連隊第一大隊のC中隊である。

この中隊がミライ地区の集落に進撃したときには一人の敵戦闘員の発見もできなかった。つまり、武装しているベトナム人は全く見当たらなかったのである。また、中隊に対して発砲する者もいなかった。そこにいたのは、武器を持たない女、子供、それに老人だけだった。

事件の一部は不明のままとなっているが、ただ、明らかなことは、このC中隊の隊員が少なくとも500人から600人の武器を持たない村民を殺したと言うことである。

村民たちは、様々な形で殺されている。ある場合には、隊員が民家の戸口に立ち、家の中に小銃を乱射して中にいた人間をやみくもに殺している。他の例では、逃げ出そうとした村民が子供を含めて撃ち殺されている。

最大の殺戮はミライ第四地区の集落で起こったものである。この集落では、ウィリアム・L・カリー中尉の率いる第一小隊が、村民を20人から40人ほどのグループに分け、小銃、機関銃、あるいは手投げ弾で殺している。

もっとも、ミライ地区内のほかの集落でも、他の将校の指揮下にあった小隊がかなりの数の非武装住民を殺していることを忘れてはならない。

殺戮は長時間にわたって行われ、午前中いっぱい続いたが、これを制止しようとした人間が一人だけいる。この策敵掃討作戦を支援するために飛行していた四等准尉のヘリコプタ
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