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【8536】 | 想い出のダービー馬 のほSEIL☆ (2013年05月23日 16時38分) |
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今年はダービー80回のメモリアルイヤーである。 同時に競馬エッセイストとしても知られた 詩人、脚本家の寺山修司の没後30年にもあたる。 ダービーと寺山、を巡る想い出話しを書こうと思う。 ――――――――――――――――― 想い出のダービー馬、といえば みなさんは どの馬をあげるだろうか。 馬券をとらせてくれた馬 外れても夢や勇気をくれた馬 人それぞれだろう。 私にとっての想い出のダービー馬、といえば キーストンだ。 と、いってもキーストンが勝ったダービーを 馬券を握って、観戦したわけではない。 ただ、友人の家の不鮮明な白黒テレビの画面で もがくように、逃げている姿がぼんやりと 浮かぶだけである。 まだ、馬券が買える年齢ではなかった。 それなのに、なぜ、わざわざ テレビがある友人の家に出向いてまで観たのか。 この年のダービーには耳目を集める理由があった。 1965年、第 32 回日本ダービー(東京優駿競走)の本命馬は 六戦五勝、唯一の敗戦も皐月賞の二着、 というダイコーターだった。 当時、九州・筑豊の石炭王、上田清次郎は日本一の馬主だった。 彼は「一国の宰相になるよりもダービー馬の馬主になることが難しい」 という、ジンクスに挑もうとしていた。 「持ち馬にダービーを勝たせようとするから、ムリなのだ ダービーに勝つ馬の馬主になればいいのだ」 ダービーの二日前、突然、上田清次郎は二千万円で、ダイコーターを買いとって 世間をあっと言わせる。 ダービーの一着本賞金が一千万円の年だから、まったく、割にあわない買い物である。 それでもダイコーターが欲しい、というのはもはや、損得ではなく 「ダービー馬の馬主になりたい」という一念だったのだろう。 結論からいうと、ダイコーターは負けた。 やはり「ダービーは金では買えなかった」のである。 このことを知っていただくと 寺山修司の書いたエッセイ 「夕陽よ、急ぐな」が味わい深くなる。 以下はその一部の引用である。 (3-1) |
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【8538】 |
古代進也 (2013年05月23日 17時50分) |
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これは 【8536】 に対する返信です。 | |||
赤加速さん 皆さん こんばんは&はじめまして 実は、先日 談話室の方で少々 のほSEIL☆さん(のほ幹事長様)と絡ませてもらったんですが、以来すっかりファンになってしまって、追っかけファンの様に こちらの方も拝見していた次第なんですが… う〜〜ん、前回の甘タイガーの実戦記録?の方は、爆笑していたんですが、今回の『想い出のダービー馬』は、一転して感動と涙でした。本当です。 >「持ち馬にダービーを勝たせようとするから無理なのだ。ダービーに勝つ馬の馬主になればいいのだ。」 う〜〜ん、何とも当時の石炭王らしいと言えばらしい大胆不敵な言葉ですねぇ。 こんな奴の言う通りになるシーンだけは見たくない気持ち、よ〜〜く分かります。 『夕陽よ、急ぐな』著;寺山修司 は、ぜひとも読んでみようと思いますが、のほさんが、李さんが教えてくれなかった李さんがすきだった『夕陽よ急げ』の意味を探る内に出会ったエッセイって事なんでしょうね。 何となくですが、李さんが逃げ馬が好きだった理由も分かる気がします。 >「キーストン」 この小さな鹿毛の逃げ馬は、まるで盗みを働いた少年が必死で裏街を逃げていくような言葉に尽くせぬ悲劇的ムードを感じさせたのである。 う〜〜ん、何とも・・・きっと、李さんもご自身の生い立ちと重ね合わせて他人とは思えなかったでしょうね。 >その澄んだ眼は、いつも何かにおびえたようにオドオドしていた。 これも何ともねぇ、 多分、全財産の半分にも届こうかというお金を のほさんに託した時の李さんも きっと キーストンみたいな澄んだ眼をしていたんでしょうね。 |
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【8537】 |
古代進也 (2013年05月23日 17時48分) |
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これは 【8536】 に対する返信です。 | |||
だから キーストンの逃げ切りに 李さんも健在だと思えた。いや、思わずにはいられなかったんでしょうね。 >いつのまにか「逃げる身」になっている自分を・・・ あぁ、そっかぁ、 これは、エッセイの中の話だったんですね。いや、てっきり、のほさんの実体験かと思いました。 現実世界に戻る訳ですねぇ。 >激痛に耐えながら残る三本脚で・・・ これも何ともねぇ、出会いは別れの始まり、これでキーストンの逃走劇も もう絶対に見る事は出来なくなってしまったんですねぇ(悲) |
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