■ 3,008件の投稿があります。 |
【1757】 |
どうなんよ (2019年04月18日 00時28分) |
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これは 【1749】 に対する返信です。 | |||
この流れで 爆撃はいただけないっしょ。 前と同じじゃないですか? そもそも 脅しになってないし 〜 そう思いませんか? スルースキル3連発www …と、見せかけて 必死のいなしwwwww ほんま、あんさんときたらw |
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【1756】 |
どうなんよ (2019年04月18日 00時21分) |
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これは 【1750】 に対する返信です。 | |||
なかのいい友人と 呑んでいて 仮にです、あくまで仮に おまえ、pwで ひどいこと したなぁ て 言われたら まぁな。 くらいは言いませんか? でも、あれは云々はなしですよ。 それは あなたの事情。 ひどいこと したことありませんか? スルースキルwww したことありまへんか?? |
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【1755】 |
どうなんよ (2019年04月18日 00時19分) |
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これは 【1751】 に対する返信です。 | |||
カンパチさん 昔々 ピワで 色々やってもた という意識は ありますか? いかな りゆうがあったとしても! ここでスルースキル発動けwww |
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【1754】 |
丁頁 (2019年04月17日 20時55分) |
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これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
なんやこりゃ3に(p○д○q) なになに 9とな(p○д○q) でっ次が1と7?(p○д○q) ふむふむ8が並んで・・・何コレ( ̄0 ̄) |
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【1753】 |
Himazinおつ (2019年04月17日 19時25分) |
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これは 【1749】 に対する返信です。 | |||
絵描きでは 飯はくえない 言われたわ〜 それで、拙もあっさり 諦めたもんなぁ。 いいねぇ いい話や。 |
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【1752】 |
いただきだ〜 (2019年04月17日 19時05分) |
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これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
カンパチは、ピワドでは珍しく学識豊富です。 読書量も並ではないと思います。 その学識を、少なくとも、今まで、「悪」に利用したことはありません。 正直言って、彼のレスは面白いですね。 だから、カンパチを支持する人が後を絶たないのでしょう、おそらく。 |
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【1751】 |
カンバチ (2019年04月17日 18時52分) |
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これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
映画監督:宮崎駿の場合。 《P−1》 宮崎駿もまた、「母という病」を引きずった人だと言えるだろう。 母親が、長く病床にあって、甘えられたなかったというエピソードは、 『となりのトトロ』のような作品に昇華され、 一つの美談のように語られることも多いが、 渦中にいた当時は、きれいごとだけではすまないものがあったようだ。 宮崎は生来過敏な子供だった。 内気でひ弱で、運動も苦手な、おとなしいが、爆発すると手が付けられない。 『新しい服』が嫌いで、着替えるのに抵抗し、ひと騒動になったという。 好きだったのは本を読むことと、絵を描くことで、お小遣いのほとんどは本に費やしていたという。 その小遣いは、潤沢に与えられていたようだ。 というのも、宮崎の実家は、当時、非常に裕福だった。 父親は町工場を営んでいたが、戦時で、戦闘機の製造の仕事を請け負うようになり、 工場には、千人を超える働き手を抱えるまでになっていた。 二千坪もある別荘を持ち、 桧皮葺(ひわだぶき)の屋敷には滝や噴水があり、 父親は貴重品となっていたガソリンで走る車を乗り回していた。 のちに、宮崎は、戦争で多くの人が犠牲になっているときに、 自分たち家族が軍需工場の利益で、ぬくぬくと暮らしていたことに、 強い罪悪感を抱くようになる。 ことに、その思いを強くさせたのは、 4才の時に襲った宇都宮大空襲の記憶だった。 宮崎の一家が、空襲を避けようと車に乗り込んだとき、 子供連れの女性が、 『乗せてください』 と駆け寄ってきたのを振り切るように、車は走りだしていた。 どうして、誰も、助けてあげて、と言わなかったのかと、 宮崎は悔やむ気持ちを語っている。 |
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【1750】 |
カンバチ (2019年04月17日 18時51分) |
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これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
《P−2》 宮崎が、その後一時期マルクス主義に傾倒するのにも、 そうした原体験が関係していると言われている。 東映動画にいたころに、高畑勲とともに労働運動の先頭に立ち、 熱心に活動することになるのだが、 それも宮崎の純粋さを示すものだろう。 だが、小学校時代の宮崎には、そんな威勢の良さは片鱗も見られず、 活発で、運動神経抜群で、リーダー的資質に恵まれていた兄に、 いつも、いじめっ子から守ってもらわなければならなかった。 不安が強く、新しい環境になじむのにも時間がかかる方だった。 小学4年生の時、宇都宮から永福町に引越したときは、 『存在の根底を揺るがすような不安』を感じたという。 そうした背景には、過敏な体質ということだけでなく、 少年駿が置かれていた不安な状況も関係していた。 母親が、彼が小学1年の時から、脊椎カリエスのため、長く病床にあったのだ。 だが、母親への思いは、それほど単純なものではなかったという。 母親は『天空の城ラピュタ』に出てくる空賊の親分ドーラと雰囲気がそっくりの女性だったというから、 たくましく、頼りになる一面の一方で、 厳しく支配的なところがあったのだろう。 そんな母親に、駿は素直に甘えることができず、 『いい子』を演じてしまうところがあった。 そうした子供の常で、 本音をぶつけることができないモヤモヤした思いを抱えていたに違いない。 しかし、心に秘めた思いや寂しさをずっと引きずっていたからこそ、 『となりのトトロ』のような作品が生まれることになったのだろう。 彼の中には、自分は兄とは違い、 母親から認めてもらえていないというコンプレックスがあったようだ。 |
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【1749】 |
カンバチ (2019年04月17日 18時51分) |
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これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
《P−3》 しかし、兄に負けないこともあった。 絵の才能だ。兄も絵が得意だったが、 3年生の時、5年生の兄よりも、既にうまくなっていたという。 高校に進むと、駿は漫画家になろうという志望をはっきり持ち始める。 しかし、父親から絵では飯が食えないと言われると、 それ以上逆らえなかった。 芸術系の大学ではなく、学習院の政経学部に進んでいる。 それでも、美術への未練は断ちがたく、 アトリエに通ったり、中学時代の恩師の油絵を習ったりしていた。 ずっと反抗期のなかった駿が、真っ向から親にぶつかることができるようになったのは、 彼が学習院を卒業し、東映映画で労働運動に携わるようになってからだった。 労働運動の先頭に立って活動した背景には、 先に述べたような事情もあったが、 それは同時に、それまで支配されてきた親の価値観への反抗という意味合いがあったように思える。 逆らったことのない母親と激論を戦わして、 それでも母親が受け入れてくれないと、 宮崎は悔しさで、涙さえ流すこともあったという。 そのぶつかり合いと涙が、 宮崎がずっと我慢していた何かを吹っ切るうえで重要だったように思える。 それは、親の支配を脱し、 自分自身のアイデンティティを確立する大きな一歩ともなったはずだ。 |
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