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【1142】 | RE:パチンコやめるぞ!2 サクラ大戦初心者 (2008年09月14日 19時11分) |
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浜松といえば、思い出すのが、三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)です。 当時まだ30歳くらいだった若き徳川家康は、武田信玄と対峙する事となりました。 はじめ、徳川家康は浜松城に籠城することにしていたのですが、 若さのあまり、自分を過信したのか、武田軍の挑発にまんまと乗せられたのか、城を出て、武田軍を攻撃してしまった。 ここで攻撃してはいけなかったのです。 家康軍は、けちょん、けちょんにやっつけられ、 多くの重臣を失い、命からがら浜松城に逃げ帰りました。 徳川家康はこのことを恥に思い、一生の教訓にしました。 それ以降、徳川家康はこのようなばかな戦いはしなくなり、そして、この教訓のおかげで最終的には天下をとりました。 って昔、浜松城に行った時、繰り返しこのテープが流れていました。 攻撃を仕掛けられたからといって、むやみに、その挑発にのって人を攻撃してはいけないみたいです。 |
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【1143】 |
HNが!! (2008年09月14日 21時55分) |
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これは 【1142】 に対する返信です。 | |||
サクラ大戦初心者さんへ 信玄は不敗に徹し、必ずしも勝利を求めなかった。川中島で五回も謙信と対陣しながら、決戦を挑んだのは二回だけで、いずれも痛み分けに終わった。戦闘では引き分けても北信濃の領土は信玄の手に残っているので、ちゃんと戦略的な目的を達しており、総合的に判断すれば信玄は勝っている。 戦は駆け引きの手段に過ぎず、それ自体が目的ではない。だからこそ勝利ではなく引き分けでも本来の目的さえ遂げられるならば充分である。謙信は五回も出陣していながら信玄から寸土たりとも奪取できないのでは、徒らに兵を損なっただけである。 信玄の不敗主義は、その戦略の精神ともいえる部分であり、信玄に何かを学ぼうとすれば、この部分こそが重要課題となる。 ところが家康が豊臣秀吉と対決した小牧・長久手の戦いでは、どうみても徳川方優勢のうちに講和を受け入れたにもかかわらず、結局は家康が秀吉に臣下の礼をとって屈服している。 勝っていながら駆け引きで折れた。これのどこが不敗主義であろうか。 のちに家康は古狸となって、露骨な嫌がらせで豊臣家を挑発するくらいの知恵は身につけたがその程度のことで「信玄に学んだ」というのは過言?かもしれない。とはいえ、三方原で対決した両者の力量の差は天と地ほどで、その後の経験によって家康がその差を縮めていくのは確かである。 三方原の戦い 信玄にとって理想的なのは、家康が降参してくれることである。浜松城の徳川勢がそっくり味方になったうえに三河まで手に入る。 ところが信玄は意外に小心と見えて浜松を通過するときも、見えない影に怯えるように信長の後詰めを警戒していた。が、この小心さが家康の襲撃を事前に察知するのに役立った。 対する家康は、もう敗北がみえみえなのに、やぶれかぶれに決戦を挑んでいる。 突っ込む徳川勢。こうして家康は、用意周到な信玄の恐ろしさをたっぷり思い知らされることになる。 家康の出撃を知る以前から、信玄は浜松城の押さえに兵を残そうと考えていたところ、家康出撃の第一報を得て早くも全軍勢を展開させ、家康を待ち伏せていた(以下略) 大垣城素通りは失敗である 関ヶ原の決戦前夜のこと、大垣城を目の前にしながら家康は西に移動する旨を東軍諸将に令した。 家康の移動命令は、即座に大垣城の石田三成の察知するところとなって、三成は西軍諸将に関ヶ原へ向けて移動する旨を令した。(途中省略) 濃い霧の中で、探りの鉄砲を関ヶ原方面に撃ちかける。霧の中から反撃に出てきたのは三成の石田勢。 「ありゃー?」 と、家康は口を開けたに違いない。そして、家康は半日の間苦戦を続けた。 この無様な家康の戦いぶりを三方原合戦に学んだなどと言ったのは・・・という説もあるので失敗しないよう、自分を戒めたいと思います。 信玄、家康、戦国の武士には学ぶ事が沢山ありあすね。 僕は彼らのような器はありませんが教訓にはなりますね。(^^)失敗ばかりしています。 |
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