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【278】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月19日 16時30分)

【7】

成田予報官が作成した風雨注意報は
海上保安部、警察、消防、
電力会社、電電公社(現NTT)
放送局、自衛隊などに電話連絡で伝えられた。

函館港の信号所には風雨注意報を
知らせる吹流しが掲げられ
港内艇が拡声器で在港船に
呼びかけをして回り始めた。

国鉄青函鉄道管理局へは鉄道気象情報として
同じ内容のものが送られた。

これを受けて函館桟橋から
各連絡船に宛てて、警報が打電されていった。

そのころ台風マリーはすでに
鳥取付近から日本海へ抜けようとしていた。

中央気象台予報課では当直の
予報官たちが首をかしげていた。

各地の気象台や観測所から送られてくるデータは
中国地方から山陰を横断してゆく間に
台風の勢力は衰えるどころか
かえって中心気圧が下がり、
速度も時速100キロ近くに
なっていることを示していたからである。

妙な台風だ、と東京の予報官たちは口々に言った。

熱帯低気圧として中部太平洋に発生したのは
九月十八日だったが、それから数日の間、
ノロノロ西北西に進むばかりで
台風になるのかどうかさえ、
はっきりしなかったやつなのだ。

フィリピンのルソン島東部に来た二十三日にようやく
中心気圧は990ミリバールに下がり、弱いながらも
一人前になって「台風15号(マリー)」と名づけられた。

二十五日に台湾東部で北東へ向きを変えたが
それと同時に中心気圧は975ミリバールまで降下し、
突然、速度を上げて本格的な台風へと発達した。

その日の夜半には鹿児島に上陸したのだから
この間のスピードはかなり速い。

しかも上陸時には最大40メートルの
暴風が吹き荒れていた。

日本に近づくにつれ、発達する台風というのは
珍しいことではないが、
上陸すれば速度は落ち、
衰退するというのが常識である。

しかしマリーはなおも発達を続け、
かつスピードを上げて
あっという間に九州から
中国、四国地方を駆け抜けていったのだ。

時速100キロというのは異常な速度だった。

日本海へ出ればさらに速度は上がるに違いない、
と考えて予報官たちはいっそう
首を傾げざるを得なかった。
【277】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月19日 16時15分)

【6】

函館海洋気象台の予報官、
成田信一はこの朝七時すぎに
三食分の弁当を持って官舎を出た。

朝七時から二十四時間の当直勤務だった。

気象台は函館市のはずれにあったが、
予報官たちが詰める予報室は
港に面した東浜町のビルに間借りしていた。

連絡船が出入りする桟橋に近い。
宿舎を早めに出たのは台風が
気になっていたからだった。

雨まじりの風雨が強くなろうとしている。
暴風域の全面が近づきつつあるのは確かに思われた。

「どうだ。強風注意報は出してくれたかね」

予報室に入るなり、前夜の当直に成田は尋ねた。

もし、台風の北上が早いようなら、海上保安部あてに
強風注意報だけは出しておいてほしい、
と前日帰るときに頼んでいた。

「はい。六時ちょっと過ぎに出しました」

「うん。ありがとう」

函館海上保安部が強風注意報の連絡を
受けたのは六時十三分、
それをもとに六時二十分には付近航行船舶に向けて
台風情報とともに無線で発信されていた。

「だいぶ、速くなっているようです」

ちょうど天気図を描いている宿直は言った。

「そうだね」

天気図をのぞきこみながら、成田は応じた。

「このぶんだと、もう中国地方か山陰に来ているな」

「問題はそのあとの進路ですが、
  どうも奥羽を横切りそうな気がします」

中央気象台の管下にある各気象官署は
自分のところで行った観測をもとに
勝手に台風情報を流すことはできない。

各地の観測網で集められた気圧や風向、
風力などのデータはいったん、中央気象へ送られ、
そこで総合的に判断して一元化される。

気象衛星のないこの時代、
中央気象台は周囲の観測網ばかりでなく、
隣接国や船舶からのデータを参考にして
広範囲な天気図を描いていた。

この天気図の材料となるデータは
国内気象無線情報(JMC)として
各気象官署に送られる。

このデータを見て地方の気象台でも
広範囲な天気図を描き、地方ごとの
要素を加えて狭い地方に限っての
気象注意報を出していた。

いま、成田予報官がのぞいているのは
午前三時現在の天気図である。

それをにらみながら、彼は言った。

「ここまでは来ないね。
 しかし、北陸をかすめて奥羽を横切る、というのは
 一番、可能性がありそうだ」

「それもかなり、早くでしょう。
 正午ごろには風が強くなると思います。
 風雨注意報を出したほうがよさそうです」

「そうしよう。八時現在で出す」

成田予報官は案文にとりかかった。

■風雨注意報   二十六日 午前八時

1.台風が当地方の南方を通過する見込みです

2.全域とも風が強くなります

3.本日、ひるごろから強くなります

4.東の風

5.陸上10〜15メートル 海上15〜20メートル

6.降水量30〜50ミリ 山沿いでは50〜100ミリ
【276】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月18日 16時56分)

【5】

節子が目をこすりながらからだを起こした。

「早起きしたうえ、今日はかつがせたんで、疲れたべ。
 どんだ、食うか」

今日、初めて節子は自分も米を持ってゆく、と言った。

勇の母親だけが最近、ようやく二人の肩を
もってくれるようになり、
ときどき青森へ顔を出すようになっていた。

この日は夕方来て、泊まってゆく、
としばらく前に葉書が届いていた。

その母に

「函館でおみやげを買って帰るんだ」

と米の袋を背負いながら節子は言った。



「あんまり、揺れねえんだの」

船室の畳に座ってしばらく
平衡をはかるようにしていた節子が
にこっ、とほほえんだ。

節子は船に弱かった。

「この船だば、こないだ天皇さんが乗ったんだぞ。
 ちっとや、そっとのシケで揺れるわけがねえ」

「いつ?」

「この夏よ。ぴっかぴかに磨いたばかりだ」




洞爺丸は昭和二十三年(1948年)十一月、
三菱重工(当時の中日本工業)神戸造船所で建造された。

二十五年にはレーダー設備が加えられ、同型の
大雪丸、摩周丸と並んで青函連絡船の中では
いちばん新しくかつ信頼性の高い高速船だった。

全長百十三・二メートル、幅員十八・八五メートル
最大速度17・4ノット、
乗客定員千百三十六。

建造費一億五千万円は終戦直後の当時、
比べるものがないほどの巨費だった。

戦前、国鉄が青函航路に就航させていた連絡船は
ドーバー海峡の車載客船にならって
建造されたものだったが太平洋戦争中、
米軍機の攻撃にあって何隻かが沈没した。

戦後、新造された洞爺丸は
ヨーロッパ風の美しい船体構造はそのままに
列車の車載口を後部に大きく解放し、
輸送効率も飛躍的に向上した。

そして、この年の八月には
北海道を行幸した天皇、皇后両陛下の
「お召し船」となった国鉄が誇る大型で
高速の連絡船だった。





「うめえぞ、これ」

勇はまた握り飯にかじりついた。

節子も手を伸ばした。

津軽海峡へ出て、揺れなければいいが、
と勇は思った。
【275】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月18日 16時54分)

【4】

「かつぎ屋」は二表分の米を背負い、両腕に下げる。

頑強な身体をもった勇にしても全身の骨が
バラバラになってしまうのではないか、
と思うような苦行だった。

青森駅の改札口から連絡船の
乗り場へは何度か階段を上り下りし、
東北線の列車が発着する
長いホームを歩かねばならない。

その間に彼はこのまま、背骨が折れて
潰れ死ぬのではないか、とよく思った。

切符と弁当包みは口にくわえた。

いま、彼が食べている握り飯も
そうやって持ってきたものである。

それでも彼はいつも陽気だった。

函館行にはよく節子を連れて行った。

米を売ってしまうと一緒に函館山に登ったり
五稜郭へ遊びにいったりした。

湯の川温泉や大沼に泊まったこともある。

そんなときの二人は籍こそ入っていなかったが、
幸せそうな夫婦に見えた。

「この商売でな、大儲けするぞ。
 そしたらゼニもって大鰐さ、帰るべ。
 親父にりんご畑買ってやるだ」

勇は言った。
  
本気でそう思っていた。

金さえあれば田畑を買ってもっと楽な暮らしができる。

父はそれを望んでいるはずであり、
そのときにはきっと節子を妻として
迎えることも許してくれる、と信じていた。

しかし、現実はそう簡単ではなかった。

やっと少し金の蓄えができた、
と思うころ決まって函館で手入れにあう。

米は没収され、次の仕入れに
貯金をはたかなければならなかった。

蓄えができていればいいが、ときには
その余裕がないうちにやられることがある。

途方にくれた勇はやむなく故郷に帰り、
父を喜ばせるどころか
こっぴどく叱り付けられるのだった。
【274】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月18日 16時52分)

【3】

三等船室で原田勇は握り飯をほおばっていた。

朝ごはんに、と夕べのうちに
節子が塩鮭を入れてこしらえたものだった。

節子は眠っている。

「今日はがぶるで、横になっておれや」

と言ったのは勇だったが、
そのまま、眠ってしまったらしい。

寝かせておいてやろう、と思って
彼は自分のジャンバーをそっとかけてやり、
ひとり、朝食の包みを開いていた。

二十八歳の原田勇は「かつぎ屋」と
呼ばれる行商人だった。

この朝も洞爺丸には数十人の
「かつぎ屋」が乗っていたが、
彼は初めてまだ半年ほどの駆け出しだった。

りんごを背負ってくる者もいたが、
ほとんどは米だった。
それがいちばん、いい金になったからである。

秋田あたりの米どころから主に鮨に使われる
上質米が青森に集ってくる。
それを駅裏の闇市で買い、北海道へ運び、
サヤを稼ぐのが彼らの仕事だ。

男たちは三十キロを超える米を背負い、両腕に下げた。
むろん、それは食料管理法に違反している。

函館ではしばしば取締りが行われ、そのたびに彼らは
もし、捕まりたくないのなら、
せっかく運んできた荷を捨てて
逃げなければならなかった。

それでも「かつぎ屋」たちは
連絡船に乗るのをやめなかった。

屈強な肉体だけが元手の男たちにほかに、
すべき仕事がない時代だった。

原田勇にとってもまさに事情は同じだった。

彼が生まれたのは弘前に近い温泉町の大鰐である。

貧しい農家の長男で両親とともに
わずかなりんご畑と田を耕しながら育った。

その勇が突然、人が変ったように
なったのはこの春だった。

たまたま友人に誘われて行った温泉街の
バーへ入り浸るようになったのである。

ホステスの節子に惚れたのだ、
という噂が狭い町にじきに広がった。
驚いた父親は息子に意見した。

しかし、勇はバー通いをやめないばかりか、
節子と結婚すると言い出した。

母親に二人の妹が加わって家族全員が激しく反発した。

家族からすれば勇は素性の知れない
水商売の女に丸め込まれた愚かな男だった。

せいぜい、ひいき目に見ても
これは女というものを知らずに
育った男がかかった一時的な熱病で、
そんな女を家族に迎え入れることはできなかった。

だが、勇は小柄で色白な節子が本心から好きだった。

節子は濃い化粧をした他の女たちと違って口紅もつけず
昼間会うと素顔にぽっと健康そうな赤味がさしている。
そんな少女のような女だった。

節子も大鰐から遠くない田舎で
やはり貧しい農家に育った。

一家を支えるのに十分な田畑はなく、
二十歳になった彼女は大鰐に出て
ホステスになるぐらいしか、自立の道はなかった。

そんな節子を勇は十分に理解していた。

その理解は愛情の一部であり、
どうしても彼女と結婚したいと思った。

家族が反対なら家を出るのもやむを得なかった。

恋人たちは青森へ駆け落ちし、
勇は「かつぎ屋」になった。
【273】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月18日 16時48分)

【2】

船内巡視結果の報告のため、
船長室に来た一等航海士の水野純吉は
通路までラジオの音声が漏れ聞こえているのに気付いた。

JMCより時間的にはるかに早く入手できる
ラジオの台風情報は今日のような場合、
航行中の船舶にとって重要である。

聞いている船長の邪魔をしてはいけない、と思って
水野航海士は部屋の前で立ち止まった。

「台風15号は午前五時現在、愛媛県の中部にあって、
 いぜん北東へ進み、今後瀬戸内海を通って
 正午ごろ、北陸地方に接近する見込みです。
 毎時90キロの早い速度で北東へ進み
 中心示度は970ミリバール、
 中心域外側の最大風速は35メートル …

 日本海側にある寒冷前線との関係から
 今後、多少、進路が北、または東に
 それることも予想されます」

台風のニュースが終わったところで
水野航海士はドアをノックした。

「船内、異常ありません」

「はい、ご苦労さん」

船長は言い、ひとり言のようにつけ加えた。

「90キロだよ。上陸したら衰えそうなものだが
 かえって速くなっている …」

中心気圧や最大風速、暴風半径は
つい、いましがた操舵手が持ってきた
午前三時現在の中央気象台の
観測データと変っていない。

しかし、それから九州、四国を横断する
二時間のあいだに速度は10キロも上がっている。

船長はイスから立ち上がって気圧計を見た。

針は1003ミリバールを指している。

六時に見たときに比べて1ミリバール降下しただけだ。

しかし、台風が90キロの速さで近づいてきているのなら
これから気圧は急激に下がりはじめるだろう。

「正午には北陸へ来る。
 早いぞ。それに日本海には寒冷前線か」

「前線の影響で進路が北にふれれば
 こっちに来ますね」

「来るかもしれん。
 まあ、飯でも食おう」

ちょうど朝食の準備ができている時間だった。

士官食堂への通路を水野航海士と並んで降りながら
近藤船長は食事を済ませたら、
これまでに集められている気象情報をもとに
天気図を描いて台風の進路を予想してみよう、
と考えていた。

近藤船長は本当に天気図作りが好きで
得意な船長だった。
【272】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月19日 16時37分)

【1】

昭和二十九年(1954年)九月二十六日
陸奥湾は朝から雨だった。

午前六時半の定時に青森を出航した青函連絡船下り三便
洞爺丸(三、八九八トン)は一路、
函館へ向けて北上していた。

ブリッジから見下ろす海は鉛色で
左舷側の津軽海峡はぼんやりとけむって見えた。

ブリッジの中央に立った船長の
近藤平市は風速計に目をやった。

針は10〜15メートルの間を気ぜわしく動いている。

風向は東。

「船尾、異常ありません」

雨合羽を着て上がってきた二等航海士が報告した。

出航配置にあたって船首を担当するのは一等航海士、
船尾は二等航海士である。

一等航海士はそのまま船内の巡視にまわり、
少し遅れて上がってくる。

「はい、ご苦労さん。じゃ、頼みます」

それだけ言って船長は腕時計をのぞきながら
階段の方へ歩いていった。

「七時のニュースを聞くんだな」

と、航海士たちは理解した。

天気図、とのあだ名がついている近藤船長が
今日のように台風が近づいている場合に
ラジオニュースを聞き漏らすはずがないことを
誰もが知っていた。

船長に代わってブリッジで当直にあたる
山田友二・二等航海士は雨合羽を脱いだ。

函館まで百十三キロ、四時間半の航海。

船長があらかじめ操舵手に指示してある航路通りに
船を走らせてやるのが当直航海士の仕事である。

「この様子なら、そう、がぶることも
  なさそうじゃないか」

山田は傍らの三等航海士に言った。

「ええ。海峡へ出れば少しやられるかもしれませんが」

当直の操舵手が上がってきて紙片を山田に手渡した。

無線室で受信したばかりの中央気象台からの
船舶無線通報(JMC)だった。

「二十六日三時現在、台風マリー、970
 九州、北緯32度、東経131、2度
 北東40ノット、最大風速70ノット、
 中心から半径150海里以内、40ノット以上。
 北緯41度、東経148度と北緯36度、東経156度の間」

山田はその内容をブリッジ前部の
天気図記載黒板に書き付けた。

970はミリバール(現在のヘクトパスカル)で表わされる台風の中心示度(気圧)である。

一海里は約1・85キロで一時間に
一海里を進む速度が1ノットである。

船員たちは海里と時速をキロメートルに
置き換えるときには
この「1・85」を「2」に簡便して換算し、
風の秒速をメートルで知りたい場合「2」で割る。

したがって、この台風の時速は約80キロ、
最大風速35メートル、中心から
半径三百キロの範囲は
20メートルの暴風ということになる。

黒板に描かれた日本地図の北緯32度、
東経131・2度の地点に
山田航海士は二重丸の印をつけた。

宮崎県下にあたる。

「鹿児島から上陸したんですね。
 マリーというんですか」

太平洋戦争後、日本に進駐した米軍は
北太平洋に発生する台風に
その年の発生順にアルファベットの
頭文字をとって女性の名をつけた。

日本側もこれにならい、キャサリン台風、
ジェーン台風というように呼んだ。

昭和二十八年(1953年)からは中央気象台は
1号、2号と番号で表わすことにしたが、しばらくは
なじみになった女性名も並行して使われた。

台風Marieの頭文字は「M」。
つまり、この台風はこの年の15号台風にあたる。

「明朝、三時の予報位置は房総沖から
  三陸沖へかけて、になる。
 いまから山陰まで来るとしても
  そのあたりで太平洋へ抜けるだろう
 午後の上り便はちょっと難儀になるかもしれんな」

「まあ、たいしたことはなさそうですね」

三等航海士はホッとした表情で言った。

洞爺丸は午前十一時に函館へ着き、
そのあと午後二時四十分発の
上り四便として同じ乗組員によって
青森へ運航されることになっている。

「船長に渡しておいてくれ」

山田は台風情報を描き出した黒板を操舵手に返した。
【271】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月18日 16時57分)


    上野発の夜行列車 降りたときから


            青森駅は雪の中


      北へ帰る人の群れは誰も無口で


        海鳴りだけを 聞いている


        私も一人 連絡船に乗り


       こごえそうなカモメ見つめ


              泣いていました



           ああ 津軽海峡 冬景色


■青函連絡船

 青森県弘前駅と北海道函館駅間を
 日本国有鉄道(現JR)が乗客と
  鉄道車両を積載して
  津軽海峡に運航していた輸送船。

明治四十一年(1908年)開業
昭和六十三年(1988年)青函トンネルの開通に伴い
                      鉄道輸送船としての役目を終えた
【270】

お知らせ  評価

野歩the犬 (2015年05月05日 11時53分)

■次回作のテーマを模索中ゆえ
 しばらく休筆いたします。


のほ
【269】

逃葬者  評価

野歩the犬 (2015年05月03日 12時27分)

【あとがき】

保険金殺人という犯罪は極めて発覚しやすい。

保険金の受取人が犯人本人、または
共謀の第三者がいないと成立しないからである。

しかも犯人は人を殺しながら法の手から逃れ、
保険金を手に入れるために被害者を
事故死した様にカムフラージュしなければならない。

当然、支払う側である保険会社の調査と
不審な点があれば捜査の手が入る。

保険金殺人は昭和四十七年(1972年)再婚した妻子に
三億一千万円という高額な保険金をかけ、
大分県別府国際観光港に車ごとダイビングして
自分だけが脱出した荒木虎美事件
(一、二審有罪、上告中に死去)以降、
昭和五十年代に入ると年に
二〜四回のペースで発生した。

この背景には当時の保険会社各社が災害死亡時には
満期額の最高三十倍にも膨れ上がる高額の
「災害特約」を目玉商品として顧客競走を
展開していたことが挙げられる。

酒井隆が主犯となった保険金替え玉殺人も
この「一攫千金」が動機となった。

特にこの事件では酒井が本来、相容れることのない
妻と愛人を謀議段階から加担させ、
行きずりの第三者を自分に仕立てあげ、殺害するという
ミステリー小説まがいの展開で社会の耳目を集めた。

それにしてもこの事件における佐賀県警の初動捜査の
醜態ぶりは目を覆うものがある。

先の「ソドムの市」で書いたように
警察は遺体の身元確認を家族、親族と対面させ
「間違いない」との言質をとることを
建前としているが、それはあくまで
最終確認の手続きである。

酒井隆とおぼしき「変死体」が発見されながら
運転免許証が見つかっていないのに、持ち合わせた
名刺だけを頼りに「遺族」に連絡し、指紋はおろか
血液型の照合すらしていない。

(被害者⇒A型、酒井⇒AB型)

遺体を「確認」した妻はその後、暴力団犯行説を強調。

追及を受けた愛人は酒井を守るために
行方不明の夫を犯人に仕立て上げる供述をし、
これを鵜呑みにして指名手配までしてしまうお粗末さ。

挙句、主犯の酒井には自殺され、面目は丸潰れだった。

このズサンな捜査にマスコミも徹底的に振り回された。

当時の読売新聞西部本社版紙面の
見出しだけを拾ってみても
その迷走ぶりがよく分かる。
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