| トップページ | P-WORLDとは | ご利用案内 | 会社案内 |
■ 338件の投稿があります。
<  34  33  32  【31】  30  29  28  27  26  25  24  23  22  21  20  19  18  17  16  15  14  13  12  11  10  9  8  7  6  5  4  3  2  1  >
【308】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月30日 16時41分)

【37】

洞爺丸では山田二等航海士が
上部遊歩甲板に立って空を見上げていた。

ついさっきまでの土砂降りが嘘のように
西から南の空が真っ青に晴れ上がっている。

風もほとんどなくなった。

「台風の眼だよ、これは。
 信じられないくらい静かだな」

通りかかった水手に山田は言った。

自然の変身はなんと素早く鮮やかなことだろう。
初めて見る台風の眼に彼は興奮を覚えた。

せんべいをくれる、と言った女に席を頼み、
洗面所を探すつもりで下部遊歩甲板へ上がった
青山妙子はあまりに空が明るいので
一瞬、めまいを感じそうになった。



朝からずっと雲っていたのに
いつの間に晴れたのかしら ――



こんなに空がきれいだったのなら、もっと早く
あの陰気な船室を出てくるのだった、と思った。

雨に洗われた函館山の緑が
秋の陽ざしを受けてキラキラと輝いている。

山の向こうの空には雲がかかっているが
その上端は金色に光り、夕陽のように美しい。

そして山からこちらの空はぬけるような青だ。



なんて、きれいなんだろう ―――



デッキの手すりに身をあずけ、
息をのむような気持ちで
妙子はその光景をながめた。


そよ風がほほに心地よかった。


生きているって、こんなに素晴らしいことなのか
と、ふっと思った。

その瞬間、彼女は自分が
死ぬつもりでいたことを思い出した。

そして、なんてバカなことを考えていたんだろう、
という気持ちに襲われた。


自然の凄絶な美しさが彼女の心を素直にさせた。


この世に生きてきて、他人を恨めばきりがない。

今度のこともしょせん、自分が愚かだったのだ。

そう考えると不意に気持ちが軽くなった。

愚かな女は自分の愚かさを背負って
生きてゆくしかないのだ。

それが人の世というものではないか。



生きよう ――――



あかね色に染まってゆく雲を見つめながら
自然と涙があふれてきた。

そう決めると、東京のアパートに残してきた
妹に会いたくてたまらなくなった。

こんなにいい天気になったのだし、
船が早く出てくれることを祈りたかった。

同じ時間、デッキでも桟橋でも、函館の街にも
唐突にやってきた晴れ間を見て
感嘆の声をあげる人がたくさんいた。


だが、彼女ほど、それに感動したものは
おそらく、ほかにいなかった。
【307】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月30日 15時05分)

【36】

午後五時少し前、函館桟橋に
激しい雨が叩きつけてきた。

天の底が抜けてしまったのか、
と思えるほどの猛烈な降り方だった。

うねりにぶつかって弾け飛ぶ大きな雨滴のせいで
海には無数の白い花が咲いたように見えた。

船長室の窓を滝のように流れる雨を眺めながら、
近藤船長はNHK第一放送、午後四時五十九分四十秒の
ステーションブレークを聞いた。

「台風15号はあと一時間ほどで渡島半島に上陸し、
 北海道北部にむかって縦断、
  または日本海岸を北上する可能性があります」

二十秒間の短い放送だったが、
そこに盛られている情報は
より細かく、具体的になってきている。

それは船長に、どうやら台風は函館を直撃しないで
西寄りにコースを変えたらしい、
という判断を抱かせた。

あと一時間で渡島半島西部に上陸するなら
ちょうどいまごろ、函館の真西を
北東進しているのだろう。

函館の緯度線へ午後五時ごろ到達する、
という見通しは外れていない。

だから、台風の速度は落ちていないはずである。
進路だけが西へずれたのだ。

船長室の気圧計は983.3ミリバール
風は少し南へ回って東南東、17メートル前後である。

これらの指針も台風が西側にあるという
船長の判断を支持するのに十分だった。

中心が抜ければもっと気圧は降下するはずだし、
風向きにも急激な変化が起きなければならない。

「おや」

と首をかしげて船長はもう一度気圧計の針を見直した。

一時間前のステーションブレークを聞いたときに比べて
わずか0.5ポイントほどだが気圧は上がってきている。

気圧計には刻々と変ってゆく気圧を示す針のほかに
読んだ時点での気圧を記録しておくための副針がついている。
だから午後四時に982.8ミリバールと読んだときに
副針をその位置で止めておけば、
一時間後の正針と比較すれば
その間にどれだけ気圧が上下したかが分かる。

いま、その副針の位置に比べて
正針は間違いなく上昇してきていた。

朝から一貫して下降を続けてきた気圧は
ようやく底を打って上昇に向かい始めたのだ。

「と、すると、中心域はもう遠ざかりはじめている」

台風が西側を去って行きつつあるらしいことに
近藤船長は安堵した。

たいした台風じゃなかったな、と思った。

その反面、少しいやな気もした。

中心が西にあるなら、いま函館湾や
津軽海峡を含めた航路は
危険半円に入っていることになる。

風はまだ強くなるかもしれないのだ。

あと、どれぐらい出航を待てばいいのか、
見当がつきかねた。

それにこの雨だ。

この激しい降り方はなにを意味しているのだろう。

中心付近の暴風雨はこれからやってこよう、
としているのではないだろうか。

ともかく辛抱して様子をみることだ、と船長は思った。

午後五時十三分、
旭川発の急行「あかしや」が函館駅に着いた。

そのころ、雨はいくらか小やみになってきていた。

ふだんだと「あかしや」に接続する連絡線は
午後五時四十分の上り六便である。

だが、乗客たちは天候回復待ちのため、
前の便から出航を見合わせていることを車内放送で
聞かされていたので桟橋への通路を走ろうとしなかった。

急ぎ足なのは肉親の病気見舞いや
突然の出張というような用事がある人たちだけで
遅れている前の便に乗れるかもしれないと
期待して桟橋改札へ向かっていた。

改札口ではこの客たちに順に番号札を渡した。

洞爺丸が出航することになったら、
下船していった客を差し引いて乗客数を数え直し、
空席のある限り新しい客を乗せよう、というのだった。
【306】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月30日 14時59分)

【35】

洞爺丸では吐くだけ吐いた節子が
青白い顔でぐったりと横になっていた。

立ったり、座ったりしていた勇は
もう一度、下部遊歩甲板へ上がった。

今度はタラップが架けられていて、
十数人の乗客が給士と押し問答をしている。

「いつ出るか、わからないなら降ろしてくれ」

「揺れている船に缶詰にしておくのは人道問題だそ!」

「乗船名簿に書いて乗ったら、
 降りられない規則になっています
 出航しないわけじゃありませんから、
 しばらく待ってください」

「せば、なしてタラップかけたんだ。
 さっきはなかった、でねえか。
 降りてもよくなったんで、かけたんだべ」

勇が聞いた。

「これは船と桟橋との連絡用なので
 乗客の方は通れません」

どうしても降ろさないつもりらしい。

病人がいるから、と事務長クラスをつかまえて
話せばよかったのだろうが、
そういう知恵が働かなかった。

うらめしそうに給士を見つめて
勇は肩を落として船室へ戻った。

一等サロンの村川九一郎は
たびたび給士を呼びつけて
会議は終わったのか、
何時に出航するのか、と尋ねていたが
はっきりしない返事に腹を立て、
ついにかんしゃくを起こした。

「おれは降りる!煮え切らない会議には
 付き合いきれん」

気の短い村川はぐずぐずしたことが大嫌いだった。

それにこれ以上、出航が遅れると
新潟に明朝着く汽車に間に合わなくなる。

それなら、さっさとあきらめて、
湯川の旅館でもう一度汗を流し
マッサージでも頼んでゆっくり寝る方が賢明だ。

「それではみなさん、失礼します」

背広に着替えた村川は周囲の客に

「きみたちはどうして降りないのかね?」

という顔つきで大声であいさつした。

下部遊歩甲板のタラップの前へ来て
彼は給士にも大声で言った。

「わたしは一等の村川だ。用事があるので降りる」

給士があっけにとられているうちに
村川はさっさとタラップを渡った。

そうなると降ろせ、といって詰めかけきていた
三等の客たちが黙っていない。

一等がよくて、おれたちが
なぜ、ダメなんだ、と
どんどん降り出した。

洞爺丸にいったん乗船したあと、
名簿に名前だけ残して
下船した乗客は六十数人にのぼった。

原田勇と節子は二度も下船を申し出ながら
不運にも果たせなかった客だった。
【305】

RE:血風クロニクル  評価

野歩the犬 (2015年05月30日 14時56分)

【34】

函館港には大小、おびただしい船が集っていた。

どの船も台風の来襲までに目的港へ着ける、
と考えて外洋を航海していたが
思いもよらないほど、その北上が早くなったので
急いで進路を変えたのだった。

港内に錨を降ろした船では船長たちが
せわしげに気圧計とのにらめっこを繰り返し、
台風の中心の接近を知ろうとしていた。

気圧計のない小さな漁船は肩を寄せ合うように港の隅に
ひと固まりになり、波にもてあそばれていた。

港内では風だけでなく、うねりも高くなり始めていた。

南側に口を開いた函館湾は
北上してくる低気圧には弱い。

南にあたる津軽海峡、あるいは南西側の
日本海に起きた大きなうねりが
そのまま湾内に押し寄せてくるからだ。

したがって、南から来る台風を避けるためには
北へ開口した陸奥湾に入るのが最も安全である。

しかし、今回の台風15号の場合にはその足の速さから
ほとんどの船にその時間的余裕がなかった。

午後四時半ごろ、港内のブイに繋がれていた
イタリア船籍の貨物船エルネスト号(七、四三一トン)の係留チェーンが切れた。

エルネスト号はその年の五月、
霧のため港外で座礁して船底を破損、
本国からの指示で買い取る業者が見つかるまで
係留されたままになっていた。

乗組員のほとんどは帰国して
乗っていたのは船長ら八人だけで
この人数ではボイラーをたくことも
機関を動かすこともできないので
事実上、死んだ船であった。

係留チェーンが切れ、船が流され始めたことに気付いた船長はあわててアンカー(錨)を打った。

しかし、弾みがついた船はアンカーを
引きずったまま漂ってゆく。

走錨(そうびょう)と呼ばれる状態である。

エルネスト号は

「われ、走錨しつつあり」

を意味する国際気流信号を掲げた。

周囲をびっしりと埋めた避泊中の船は
これを見てパニックとなった。

全長百八十メートルを超える巨大な船に
港内を走り回られては危険このうえない。

「イタリア船、こっちに流されてきます!」

ちょうど風下に錨泊していた第十二青函丸の
船長は操舵手の報告を受けると機関室に叫んだ。

「急速暖機!」

切っていたエンジンをウオームアップして
全速で逃げなければならない。

第十二青函丸はのしかかってきそうな
エルネスト号の黒い巨体をかわして
ようやく風上へでた。
そのころにはやっとエルネスト号のアンカーは
海底をつかみ走錨も止まったかに見えた。

成り行きを見守っていた周囲の船も安堵の息を吐いた。

ただ、このイタリア船の走錨がその夜、
函館港で起きることになる惨事の
不吉な幕開けであることに気付いた者はいなかった。
【304】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月29日 15時19分)

【33】

一等サロンで浴衣姿になった佐渡味噌販売会社社長の
村川九一郎は居丈高な口調で給士を問詰していた。

「おい、どうして早くださないんだ。
 なにも説明がないじゃないか。
  お客はみな忙しいからだ、なんだぞ」

「はい、もうしばらくお待ちください。
  ただいま、会議中ですから」

会議中というのは給士の思いつきだった。

会社の社長や重役、政治家というような
人物が多い一等客向けにはなんとなく、
かっこうがつく言い訳に思えたのである。

村川はそれを聞きとがめた。

特別室に船長や青函局の幹部らしい人たちが
出入りしていることに彼は気付いていた。

「特別室で会議をやっているのかね。
 乗っているのは誰なんだ」

「はあ、国鉄の札幌総支配人と局長たちです」

「ふむ」

村川はソファで腕組みした。

これは少し面白い。反面、厄介な事態だ。
そんなお偉方が乗っているとすると、
きっと船長の判断に口を出すだろう。

あるものは早く出せ、と言うかもしれないし、
もうしばらく待て、と言い出すものもいるに違いない。

それほどあからさまに言わないまでにしても
彼らの何気ないひと言が船長の心理に重圧をかけ
判断を誤らせない、とも限らない。

「きみ、そういうのを船頭、多くして、
  山に登る、というのだ。
 会議なんかしてもなにもならん。
 船のことは船長にまかせておけばよい。
 総支配人にそう、言いなさい」

「はあ」

給士は逃げ出すようにして立ち去った。

会議中というのはうまい方便だと思ったのだが、
嘘の言葉じり、をつかまえられて
客から叱られてはかなわない。

村川は一等サロンに同席していた
客にむかって喋り始めた。

「このくらいのシケで青函連絡船が
  遅れるなんて醜態ですよ。
 私は佐渡生まれだから子どものときから
   しょっちゅう佐渡汽船に乗ってますがね。

 あれはこの船よりずっと小さい
   二、三百トンのやつです。
 それでも沈んだためしがない。

 そりゃシケが来れば船は半分、
  波の下へ沈むような揺れ方をします。
 天井へ叩きつけられて死ぬんじゃないか、
  と思いますよ。
 それでも大丈夫なものなんだ。

 佐渡汽船が欠航するのはよくよくのとき、でね。
 それでも海賊船と呼ばれるモグリの船が出る。

 こいつに乗ってごらんなさい。
 木の葉のように揺れる、なんてもんじゃない。
 積荷はどさっと崩れてくる。
  船底バリバリッと音を立てる。
 そうとう度胸のいい人でも、
  もう駄目だと目をつぶりますな。
 しかし、それでも沈むことはないんです。
  船というものは」

村川はたくわえた口ひげを動かしながら
冗舌にまくしたてていた。
【303】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月29日 13時34分)


【32】

「けしからんですよ。
  なぜ、こんなに出航が遅れているのか
 全然、説明がないんですから」

「ボーイに聞いても船室で待っていろ、
  としか言わないんだ」

船室に戻った原田勇の隣では
学生たちが口々に不満を言っていた。

「こうなると予定を変更しなければならないな。
 東京へ寄らないで、まっすぐ京都へ行こう」

淵上助教授が言った。

当初の日程では東京で一日、美術館巡りをして
関西へ向かうことにしていたが、
この様子だと明朝、東京へ着く
夜行列車に間に合いそうにない。

日程通りだと京都での桂離宮を
見学する機会を失う心配があった。

「その日は動かせませんからね。
  東京は帰りにしましょう」

学生たちの意見もすぐにまとまった。

周りには気分の悪くなる乗客が増えてきていたが
彼らは陽気に海苔巻きや握り飯の包みを開きだした。



後部三等船室の青山妙子は
座ったままの姿勢を崩さなかった。

どうして船は出ないのだろう、と思った。

時間が経つうちにせっかく固めた
死の決意が崩れていきそうな気がした。

その一方でこのまま船がここに
止まってくれればいい、とも思った。

そうすれば海へ飛び込まなくてもすむのだ。

そう考えるたびに

「なんて私は意気地なしなんだろう」

と彼女は自分を蔑むのだった。

「ねえちゃんは北海道のひとだか」

さっき、席をとっておいてくれ、と言って立ち上がった
津軽なまりの中年の女が戻ってきて話しかけてきた。

「いえ、東京です」

「んまあ、東京から、の。
  それにしては船に強そうだの。
 わだば、子どものころから乗ってるけどもさ」

昔、軍用船でフィリピンへ行ったときは
もっとひどいシケだった、
と言おうとして妙子はやめた。

こんな女とかかわりあうのが、
わずらわしい気がした。

「ひとつ、食わねえか」

女はいま、売店で買ってきたせんべいの袋を開けた。

船がテケミしている間に
いちばんよく売れるのはせんべいである。

この日もほとんどの三等売店では
売り切れになっていた。

「さ、さ、食いへじゃ」

妙子は首をふった。

緊張しているせいだろう。

船酔いは感じていなかったが、
とてもせんべいに手をだす気分ではなかった。
【302】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月29日 13時28分)

【31】

函館ではますます風が強くなっていた。

洞爺丸は岸壁にぶつかっては離れる
不安定な揺れを繰り返した。

午後四時の時報直前、近藤船長は
ラジオのNHK第一放送で台風情報を耳にした。

「台風15号は夕刻までに渡島半島に上陸するか、
  または極めて接近し、今夜半までに千島方面、
  またはオホーツク海南部に去る見込みです」

この台風情報は時報に先立つ
ステーションブレークと呼ばれるもので
函館海洋気象台の成田予報官らの
観測をもとに作られた最新情報である。

「そろそろ、夕刻だがな」

近藤船長はつぶやいた。

時間ははっきりしないが、渡島半島、
つまり函館を抱く地域と
具体的な地名が予報に出てきたのは初めてだ。

台風がいよいよ近付きつつあるのはもう、間違いない。

気圧計の針はいっそう降下して
982.8ミリバールを指している。
海図の上にまた船長は指を広げてみた。

函館付近に台風が来るのは午後五時ごろだろう。

あと一時間後である。

待つ時間が長引くにつれて洞爺丸の乗客たちは
しだいに落ち着きを失ってきていた。

気をまぎらせてもらうために船内スピーカーで
NHK第二放送の大相撲中継が流された。

蔵前国技館での秋場所、中日のこの日は
大関・栃錦に関脇・大内山、
横綱・鏡里に関脇・若ノ花
横綱・千代の山に小結・朝汐、
といった好取組があった。

ただ、それを喜ぶものもいたが、大きな音量のせいで
いっそう気分を悪くする客もいた。


節子はとうとう戻した。

駅前で食べたソバはもう胃の中にないのだろう。
黄色い胃液だけを苦しそうに吐いている。
その薄い背中をさすってやりながら、
勇は船を降りなければいれない、と思った。

このまま揺られ続けたら、節子は弱ってしまうだろう。

「降りて、今夜は湯川さ、泊まるべ、な」

節子は畳に腹ばったまま、弱々しくうなずいた。

「ちょっと待っておれや」

勇は下部遊歩甲板へ上がった。

今日、帰らないと母に待ちぼうけを
くわせることになるが、
仕方がない、と思った。

「降ろしてくれねえか。うちのは弱いもんで」

白い服を着た給士の姿を捜して頼んだ。

しかし、相手は首をふった。

「だめです。勝手には降ろせません。
  タラップも外してしまってあるし」

「しかし、ほんとに参っちまうんだよ、うちのは」

「しばらく、がまんしてもらってください」

給士はそれだけ言うと行ってしまった。

タラップは確かに外されている。
揺れる船に閉じ込められたような気がして
勇は心細くなった。

ふと、船尾を見ると甲板から飛び降りる男たちがいる。

近寄ってみて、さっきまで船室で
トランプ遊びをしていた
顔見知りの行商人たちだとわかった。

「どうだ。おめえも降りねえか。
 街でうめえもんでも食って、夜の船にすべし」

勇は声をかけられた。

ひとつ下の車両甲板へ飛び降りて、
そこから岸壁に上がろうというのだ。

「おら、飛べるけんども …」

「あ、そうか。おめえはめんこい
  かあちゃんと一緒だったな。
 せば、なかよく寝てろ」

相手は笑って威勢よく甲板に飛び降りていった。

節子にはとても無理な高さである。

しょんぼりと船室に戻った勇はまた、
節子の背中をさすってやることにした。
【301】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月29日 13時23分)

【30】

ブリッジの頭上に広がる青空。

台風の眼だ ―――― と佐藤船長は直感した。

そうだったのか、とすべてが納得できた。

台風の眼の中では風はなぎ、時として晴れ間がのぞく。
さっきから並行して起きていた
気圧の降下と風速の弱まりとは
台風の眼の接近を告げるものだったのだ。

知識としては頭にあったが、初めて見る台風の眼を
彼はしばらくじっと見上げていた。

美しいものだな、と思った。

やがて彼は思考を現実に引き戻した。

いま、台風の眼がここを通り過ぎているのだとすると
台風は思ったより三十分も早くやってきたことになる。

時速110キロというスピードが
すでに異常だが、それよりさらに
加速したというのだろうか。
そうなのだろう、と思った。

それに午後一時現在の位置そのものが
推定に過ぎず、多少の誤差はある。
そのことからすれば、
いま台風の中心が青森へ来ていることが
おかしい、とはいえなかった。

ただ、ブリッジの気圧計をのぞいた彼は
針が981ミリバールのまま
動いていないことにちょっと疑問をもった。

台風の中心示度は968ミリバールなのだから
眼の中ではそれに近い数値にならなければおかしい。

しかし、彼はすぐに疑念を捨てた。

長く走りつづけて来た台風はさすがにここにきて
勢力が衰えたのだろう、と思った。

では、台風の眼が通り過ぎたあとの天候はどうなるのか。

風は西よりに変って再び激しく吹きつのり始める。

台風が300キロの暴風雨圏をもっているからには
これから三時間は嵐が続くはずである。

羊蹄丸が定時に出航すると、
その暴風雨圏を追って航海することになる。
船は絶えず風浪にもてあそばれるだろう。

そんな危険な航海をすべきではない。

ともかく、少なくともあと三時間、待とう。

そのうえで現実の天候の変化を確かめ、
海峡と函館付近の情報を集めてから
出航しよう、と思った。

そう決めて佐藤船長は迷いを
さっぱりとぬぐった晴れやかな表情になった。

スタンバイの時間が近づいて
航海士や操舵手たちがブリッジに上がってきた。

「ないだなあ」

「このぶんだと、吹き返しもたいしたことないぜ」

まだ続いている晴れ間のせいで、
彼らの声も浮き立つようだった。

そこへ佐藤船長の壮重な一声がかかった。

「本船はテケミする」

操舵手は一瞬、ぽかん、とした。

このいい天気なのに信じられない、
という顔のまま<、あわてて復唱した。

「はい、本船テケミ」

まさにエンジンのウォームアップに
とりかかろうとしている機関室にむけ
船長の命令はボイスチューブで伝えられた。
【300】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月28日 16時58分)

【29】

 
青森桟橋に係船された羊蹄丸の船長室では
佐藤昌亮が苦悩していた。

午後四時半の定時に出航するのなら、
四時に出航配置を命じなければならない。

それまでにあと三十分と少ししかなかった。

さっきから彼は何度もブリッジへ上がったり
デッキへ出たりして空を見上げていた。

二時すぎから風は落ちて
10メートルを割ってきていた。

雨も降っていない。

台風はコースを外れ、天候は
回復してきつつあるようにも思える。

しかし、雲の動きは速く、あわただしい。

不気味にさえ思える。

船長室の気圧計は981ミリバールに落ちた。

青森に着いてからの二時間に
7ポイントもの降下である。

この急激な降下は見かけの天候の好転とは裏腹に
台風がますます接近しつつあることを
示すものにほかならなかった。


「台風15号は今日夕刻、奥羽地方北部、
  または北海道南部に達し
 今夜、千島方面に去る見込みです。

 中央気象台の発表によりますと
  台風は午後一時には佐渡島の
  北西100キロの海上にあって
  毎時110キロの速さで北東に進んでいます。
  中心示度は968ミリバール
  中心付近の最大風速は35メートル
  中心より300キロ以内では
  20メートル以上の暴風雨になっています」


船長室のラジオで聞いた午後3時のNHKニュースでは
最新の台風情報をそう伝えていた。

その位置と速度からすると午後四時前後、
つまりちょうど出航配置を命じなければ
ならない時間に台風の中心は青森付近に到達するのだ。

「それにしては、ばかに風が落ちてきている」

佐藤船長はつぶやいた。

風速計の針はやっと5メートルを
越したあたりに止まっている。

気圧が落ちる一方で風がなぐ ―――
この現象はいったいなんなのだろう。

決断すべき時間が近づきつつある中で、
しきりに彼は首をかしげた。

午後三時半を過ぎたころ、ふと、
あたりが明るくなったような気がして
佐藤船長は顔をあげた。

船長室の窓のむこうの桟橋に陽が差している。

あっ!と思って部屋を走り出し、
ブリッジのへの階段を駆け上がった。

ブリッジから見渡すかぎりの港内の海面が
秋の午後の陽を受けて銀色に光っていた。

見上げた空はちょうどそこへ
真っ青な穴を開けたように
ぽっかりと晴れていた。
【299】

SOS洞爺丸  評価

野歩the犬 (2015年05月28日 17時05分)

【28】

船長室をノックして川上海務課長が顔を見せた。

テケミを聞いて様子を聞きにきたのだった。

タラップは外されていたので
車両甲板の後部開口から入った。

「時期を失したので、やめましたよ」

近藤船長はそれだけを言った。

川上はうなずき返して尋ねた。

「沖出し、しますか」

「いや、それはしたくないのですがね」

テケミをする場合、長時間にわたらない見通しがあれば
旅客を乗せたまま、船は岸壁につなぐ。

長くなるようなら、客を降ろして船を岸壁から離す。

沖出しするのはあとから入港してくる船に
岸壁をあけるためと波で船が桟橋にぶつけられて
傷つくのを避けるためだ。

いずれにしても沖出しするときには客を降ろす。

沖出ししたくない、という近藤船長の返事には
二つの意味があることを川上は理解した。

ひとつはテケミが長くはならない、ということだ。

船長は台風をやり過ごしてすぐ、
出航するつもりでいる。
たぶん、出航時間の腹づもりも、できているのだろう。

もうひとつ、乗客や桟橋にいやな顔をされたくない、
という配慮があるはずだった。

船に乗り込んで席を決めた旅客は
降りろ、というのを嫌がる。

桟橋にしても待合室に戻った客から
出航見通しの質問攻めにはあいたくない。

近藤船長はそのあたりもきちんと気配りする人だった。



中沢運輸部長は一等サロンへ上がった。

洞爺丸のテケミを総支配人一行に報告するためだった。

一等特別室は定員が二人だが、
左舷側の総支配人がいる部屋で
中沢が話しているのを聞きつけて右舷側から
釧路と旭川の局長が顔を出した。

「なんだ、船は出せないのか。
 それじゃ、ちょっと早く飲みすぎたな」

局長の一人が言って笑い声が起きた。

「どうされますか。出航まで降りられたいなら
 鉄道の寮の方へご案内しますが」

たずねる中沢に総支配人が答えた。

「いや、このまま船でゆっくりしよう」


「それよりも船はどれくらい遅れるのかね。
 青森へ着くのがあんまり遅くなると
  接続の列車を逃すことになるな」

札幌次長のこの心配は一行の共通の関心だった。

出航が夜になると青森発、東京行きの
夜行列車は一本もなくなってしまうのだ。

中沢は二段階で座席と寝台を
押さえておくことを提案した。

まず、真夜中までに洞爺丸が出航した場合のために
明朝二十七日午前五時二十分、
青森発の急行「みちのく」の特別二等を五人分。
これで行けば夜八時には上野に着く。

次に出航が明朝までずれ込むことも考えて
二十七日午後六時四十分青森発の
急行の一等寝台を五人分。

ただ、この場合上野へ着くのは
二十八日朝十時になり
国鉄本社で開かれる会議には
急いでも三十分は遅刻する。

「それじゃ、飛行機はどうかね。
 こういう場合だから、やむをえんだろう」

札幌次長が言った。

日航機に乗るためには千歳まで
引き返さなければならないが、
座席さえとれれば、それが一番早いのは確かだった。

航空便を含めてすぐ、座席の手配をしてみます、
と中沢は答えた。
<  34  33  32  【31】  30  29  28  27  26  25  24  23  22  21  20  19  18  17  16  15  14  13  12  11  10  9  8  7  6  5  4  3  2  1  >
メンバー登録 | プロフィール編集 | 利用規約 | 違反投稿を見付けたら