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【138】

ジギリ狼  評価

野歩the犬 (2014年12月25日 16時23分)

【驚 胃】

山上に素うどんを食べさせたのは丸本繁喜である。

アルマイトの鍋で煮た素うどんを
お椀に入れて三畳間へ持ってゆくと
豆腐をひと口ほど食べていた山上は
すでに目を見開いてうどんを欲しがった。

十一月初旬、昼時といっても
やはり冷たい豆腐より温かい汁ものがよく
口の中が乾ききっている山上にとっては、
粘りつくような豆腐より
つゆの味がしみわたるうどんを
欲しがって当然といえた。

横向きに寝たままの山上の口へ
丸本が箸でうどんを一本入れてやると
山上は感極まった様子でゆっくりと噛みしめた。

「みっちゃん、うまいか」

丸本にしても午前中に死を宣告された男が
ゆっくりとはいえ、
うどんを噛んでいるのを見れば嬉しかった。

山上が頷くのを待って、
もう一本を口に入れてやる。


「つゆ、つゆ、が飲みたい」


「ほうか。ほうじゃろうのう。
 のども渇いとるんじゃろうけん」

丸本が木のスプーンでほどよい
温かさになった汁を与えると
山上は喉仏を上下にごくん、と音を立てて飲んだ。

そしてもう、ひと口、もう一本、と
少しずつ食べるピッチが早くなっていくうち
山上の土色の顔にほんのり赤みがさし、
時折開く目の充血もとれてゆくようだった。

「みっちゃん、そげん、食うて大丈夫か。
 親父にあんまり、食わすな、言われとるけんのう」

丸本が見かねて口出ししたのは、
お椀の中があらかたなくなりかかったときだった。

ところが山上は残りをすぐに
平らげてしまったばかりか、
徐々に声の調子を取り戻していた。

「もう、一杯、頼むから、食わせい」

「やめとき、また夜になったら食わせるけぇ。
 みっちゃん、辛抱せいよ」

「頼みじゃ、いま、食いたい。
 世話かけてすまんのう。食わせい」

折れたのは丸本の方だった。

胃痙攣は心配だったが、
これだけ元気が出たうえ、不死身の山上であれば
情からいっても食べさせてやりたかった。

山上はその二杯目を今度は凄まじいばかりの
食欲できれいに食べ終わると
「ありがとう」と丸本に言って、
安心したのかすぐ目を閉じて眠りについた。

あっけにとられた丸本がその寝顔を
ぼんやり見ているところへやってきたのが岡である。

「丸、ちょっと来い」

すでに二杯目を持っていったと知り、
お椀が空になっているのを見て
岡は怒気をみなぎらせていた。

「おまえ、胃袋が破裂したらどうすんない。
 光冶を死なすんか、われ」

岡の往復ビンタが丸本の頬に炸裂することになったが
山上はその夜からみるみる快方にむかった。

二日後には丸本の一件を知らない原田昭三が
山上の「天ぷらが食いたい」との願いを聞き入れ、
またしても岡の往復ビンタを喰らった。

しかし、岡の心配をよそに絶食四十七日を耐えぬいた
山上の内臓は急激な食欲をも強靭にこなしきった。

剣道の防具のような「一枚アバラ」を持って生まれた
山上ならではの奇跡であった。
【137】

ジギリ狼  評価

野歩the犬 (2014年12月25日 16時18分)

【蘇 生】

仮死状態の山上光冶は警察医が帰ったあと
階段下の三畳間の部屋へと運ばれて寝かされた。

警察医が「つまらん」とサジを投げたことは
刑の執行停止と共に場合によっては
葬儀の準備をしなければならない。

山上は意識があるのか、ないのか、
寝かせられたままピクリともしない。

救いは担架で受け取ったときよりも
布団に寝かせられたせいか、
肌に触れるといくぶん、
温もりが感じられることだった。

「ま、もう少し、様子みな、しゃあない」

山上の鼻先に手をあて、
呼吸を感じた岡敏夫がつぶやいた。

しかし、誰もが山上の顔を見ると
凍りつくような戦慄を覚えた。

小柄で顔も小さい山上はさらに全体がひと回り縮み
布団から出ている顔の皮膚はカサカサに乾き、
わずかにコケのようなものが
辛うじて張り付いているだけである。

しかも一年前の冬、
闇市で村上組組員からピッケルを叩き込まれた
右の耳下にはおびただしい血がこびりついて、
その上に新しい血が流れ出していた。

頭部の穴はなんとか肉が盛り上がって治ったが、
鼓膜まで達していた耳の傷は
山上の片耳を不自由にしたばかりか、
穴はいつまでたっても塞がらず、
山上はいつもそこへ脱脂綿を詰めて
流れ出る血や膿を防いでいた。

その習慣もすでに自分で出来ないほど、
山上の衰弱は進んでいたが、
土色の乾いたコケのような皮膚の上に
流れる血は凄惨であると同時に
それが山上の生きている唯一の証しでもあった。

そしてその証しは警察医が帰って、
二時間近くたって現実のものとなる。

様子を見にきていた岡が
山上の小さな動きを目にとめて声をかけた。

「光冶、おい、聞こえるか、光冶」

山上が頷くように首を動かし、
小さく口元を開いたのはその時だった。


おう、こいつは助かる ――――


岡が相槌を打ちながら驚きの表情で
周囲の若衆を見渡した。

「光冶、腹、減ったか」

岡が今度は血の出てない左耳へ口を寄せた。

それは断食で死の淵にある山上への
反射的な一言だったが、
山上はかすれるような声でゆっくりと言ったのだ。

「は … い ……   な に か… 食 わ せ て、つかあ… さ い」

「おう、待っとれい、
 今すぐ、用意してやるけぇ!」

岡が弾かれたように立ち上がった。

集まっていた服部、丸本、原田らも
同じように立ち上がると
信じられない、という顔つきで見合わせた。

村上組によるリンチで瀕死の重傷から
回復して約一年 ――。
同じように医者から見捨てられながら、
山上は再度、甦ったのだ。

やっぱり、不死身じゃ、こいつは。

二度の奇跡を実際に見た彼らは目で語り合った。

「親っさん、豆腐がええですかいの」

「そうじゃな、豆腐と素うどん。
 じゃあけ、急にあんまり食わすなよ」

「わかっとります」

丸本が若い者に命じて豆腐と素うどんが用意された。
出所に際して醤油もかけない豆腐を食べるのは
身を白くする、という極道の習慣であった。

素うどんは縮んでしまっている胃を
刺激しないように、という岡の配慮である。

現実にもまだ戦後一年三ヶ月、
豆腐も素うどんも貴重品の時代であれば
それは山上の状況からみても精一杯のご馳走であった。
【136】

ジギリ狼  評価

野歩the犬 (2014年12月25日 16時27分)

【断 食】

山上はついに断食を決行した。



どこまでやれるか。

生きて出られるか、死に至るか、
やってみてからのことである。


ジャガイモばかりのような食事だったが、
山上はきっぱりと食を断った。

水だけは用心深く口にしたが、
やがてそれも徐々に減らしてゆく。

衰弱が進むと山上は一日中、
うとうととして過ごした。

夢ばかり見る日もあった。

夢の中で山上は衰弱とは逆に
ぐんぐんと回復していたころの岡の自宅にいた。

そのころの山上は夜陰にまぎれて
山中での拳銃の試射に通っていたが
その自分の姿がありありと浮かんだ。

夢の中に自分を痛めつけた村上組の面々の顔がよぎる。

夢はやがてよし子の笑顔につながり、
目が覚めるが山上はもう、
自分がどんな状態にいるのか、分からなかった。


刑務所内に吹き始めていた秋風は
次第に冷たくなっていったが
栄養失調の進んだ山上は
震えるだけで声も出なくなった。

山上の病棟送りが検討されたのは
断食が四十日を超えた十月末のことだった。

六週間を過ぎると生命の危機と
言われるだけに当然だったが、
ここから当時の新聞記事等の記録と
現実は食い違いをみせる。

記録によれば山上は十一月四日、
栄養衰退による重篤を理由に
刑が執行停止となり、広島赤十字病院に入院、
加療中に脱走したとなっている。

しかし、山上にそんな体力があるはずもなく
現実には山上が刑務所内で
壮絶なジギリをかけていることを知った、
岡敏夫が裏から手を回して身柄を貰い受けていたのだ。

十一月六日朝、
広島刑務所から電話を受けた岡は
午前九時過ぎに広島地方裁判所へ出向き、
書類一式をもらい、吉島の刑務所に
着いたのが午前九時半過ぎだった。

岡を助手席に乗せたシボレーは刑務所裏門から入ると
病舎から担架で運ばれてきた山上を受け取った。

掛けられた毛布からのぞく顔に全く血の気はなく、
垢で焦げ茶色になった山上はすでに骨と皮のみで
息をしているのかも判然としない状態だった。

柳橋の新しい組事務所兼自宅へ連れて帰り、
歩いて五分ほどの広島東警察署から
警察医と刑事を連れてきたのは丸本繁喜である。


警察医の鑑定は一言だった。

「岡、もうこれは駄目じゃ。
 なんぼ、手を尽くしてもつまらん」

「つまらん」とはサジを投げる意味で
この段階で山上は自由な体となったが、
同時に死をも、宣告された。

しかし、山上はここから再び甦るのだ。
【135】

ジギリ狼  評価

野歩the犬 (2014年12月26日 16時01分)

【決 意】

暑さがひときわこたえる刑務所内にも時折、
涼しい風が感じられるようになった
昭和二十一年(1946年)の九月半ば、
山上は獄中に岡敏夫の舎弟、高橋国穂を迎え入れた。

岡の自宅にいたころ、何回か挨拶した程度だったが、
親分、岡敏夫を含め岡組の近況を聞きだすのには申し分のない人物だった。

山上は服部、丸山ら若い者たちのことを聞きながら
徐々に岡道場や親分のことに話を移していった。

すると高橋国穂は自ら核心に触れてきた。

「お前が知りたいのはよっちゃん、のことじゃろう。
 その、よっちゃん、がの。
 お前が無期刑じゃ、仕方ない、
 言うて岡の兄貴が嫁ぎ先を心配しとる、いう話よ。
 ま、身から出た錆びじゃ。
 お前もよっちゃんのためには
 その方がよかろうが、のう」

「ほんまですか」

それまで笑みを漂わせていた山上の三白眼が
ぐい、と上を向いた。

「ほんま、誰でもそう思うはずじゃろうが」

このとき高橋は暴力事件で短期刑に服していたが、
岡から思ったほど援助が得られず不服に感じていた。

そのため、岡への恨み事のつもりで
つい、山上に思わせぶりな話をしてしまったが
山上の三白眼を見て、
自分の話が「効き過ぎた」ことを感じた。

高橋国穂の軽はずみな言葉はこのあと山上の人生も
岡組対村上組の抗争という歴史をも大きく左右することになる。

山上は短歌を詠むことで
辛い刑務所暮らしを耐えていたが
常に意識はよし子への思慕にあり、
また、そのころは岡組を取り巻く状況の変化に
焦燥感が募る一方だった。

なんとしても(シャバに)出んといけん。

出て親分に頼んでよし子の再婚話は
とりやめてもらわんといけん。

わしに懐いている二人の子供にとっても、
その方が幸せ、いうもんじゃ。

高橋国穂にとってみれば、ちょっとした逆恨みから
山上に岡への思いを吹き込んだに過ぎなかったが、
山上にとってはよし子への思いが
凝結することとなった。

務所を出るんじゃ。
  
出て、よし子の許へもどるんじゃ。

そのうえで岡の親分に真意を聞いてみな、いかん。

大恩の人じゃろうと、
よし子が再婚しとったら、許せんじゃろう。

いや、そんなはずはありゃ、せん。
親分が再婚話を進めるなんて、なんかの間違いじゃ。

無期刑だからちゅうて、諦めていられん。

親分に助けてもろうた恩も返しとらんし、
いつかは、思うとる村上組の連中への
復讐も果たしとらん。

よし、わしは出たる。

山上の思いはよし子を軸にして揺れ、
軸があるだけに結論は一つとなった。

刑務所を出て、自由によし子に会い、
恩も仇も返せる立場になるには
刑の執行停止しかなかった。


死に至る大病、心神耗弱。


山上は決断した。


刑務所内にあって可能な「ジギリ」・・・




   
 断食。




それしか方法がなかった。
【134】

ジギリ狼  評価

野歩the犬 (2014年12月23日 15時34分)

【焦 燥】

岡敏夫が広島一の侠客として売り出したころ、
獄中の山上光冶もまた、広島刑務所内で
その名を知らぬ存在となっていた。

山上は「吉島の虎」と仇名される
同じ無期囚と一騎打ちを挑んだ。

シャバでも執念深かった山上の性根は
閉塞された刑務所内でさらに増し、
やられても、やられても相手に喰らいつき、
最後は雑居房の全員で
引き離さなければならない大立ち周りとなった。

「吉島の虎」は全身の数ケ所を山上に食いちぎられ、
挙句、網走送りとなったといわれる。

山上自身も数週間の懲罰房生活を送ることになったが、
それ以後は周囲も一目おくようになり、
山上の凶暴性は鳴りを潜めた。

山上は三十一文字(みそひともじ)で
心境をつづる短歌の世界に没頭し始める。

ヤクザになった以上、長生きすることなど
考えていなかった山上だったが、
唯一の心残りはやはりシャバに残した
西村よし子のことだった。

よし子への恋慕か、あるいは断ち切るためか
山上は想念を三十一文字に移し変えていた。

山上の達筆は有名で所内紙に山上の短歌が美しい文字で
掲載されているのを多くの受刑者が目にしている。

シャバの情報は新入りの受刑者によって
山上の耳の許にもたらされた。

岡組の道場(賭場)開き。

朝鮮連盟との衝突回避に奔走した親分、岡敏夫の苦労、
挙句、無血で連盟側が撤退したという話を聞くにつけ、
山上は嬉しさとともに焦燥感も混じるようになった。

山上が知っているのは瀕死の重傷を負って
担ぎ込まれた尾長町の岡の自宅だけである。

岡道場の盛況ぶりは知れても、
多くの新加入者がどんな男たちなのか
全く情報はなかった。

よし子についてもさりげなく聞いても
得るものはなかった。

もちろん、知ったからといってどうなるものでもない。

しかし、大恩ある親分を取り巻く環境に
未知なるものが急増するにつれ、
不自由な山上の焦燥感は募った。

やがて岡組が広島駅構内の警備を
任されたという情報が流れてくる。

当時は自分しか持っていなかった拳銃も
警察やMP黙認で持つようになったのかもしれない。

山上が考えたように事実もまた、その通りだった。

MPへの懐柔が功を奏し、
岡組は急速な武装化を図っていた。

そうして岡組の勢力が急増するにつれ、
立場が微妙になるのがテキヤの村上組だった。

その夏、小倉祇園祭りに露店を出した村上組は
広島の闇市が博徒の岡組に牛耳られていることを
土地の親分衆に非難され、その面子を失っていた。

岡組の増長は村上組の敵愾心をあおり始めた。

もちろん、岡組も獄中の山上も全く知らない。

歴史はただ、そういう歩みを示し、その中に
運命の山上が流れ込んでゆく。
【133】

ジギリ狼  評価

野歩the犬 (2015年01月05日 14時37分)

【岡 王国】

山上が強盗殺人事件を引き起こした半年ほど前から、
広島駅前の猿侯橋の闇市では大きな変化が起こっていた。

全国どこの大都市でも見られたことだが、
朝鮮連盟の看板が横暴の限りを
尽くすようになったのである。

武装解除され、丸腰状態の警察は全く手が出せない。

たまりかねた警察は山上の一件もあり、
面倒見の良さから次第にボンクラが寄り集まって
「岡道場」という賭場を開いた岡組組長、
岡敏夫に相談した。

闇市のシマは確かにテキヤの村上組が握っていた。

しかし、露店のカスリは取っていても、
実権はふんだんな銃で武装した朝鮮連盟が握り、
揉め事の相談は岡組に持ち込まれるという図式だった。

「わしらも応援しますけぇ、
 岡さん、男として立ち上がってくださらんか」

警察からの要請に岡敏夫は決断した。
ケンカになるか、ならぬか、
まずは話し合いから始めなくてはならない。

岡敏夫は単身、朝鮮連盟に乗り込み、
会長と一対一の話し合いを求めた。

岡の言い分はこうである。

「朝鮮連盟の横暴は警察もお手上げだ。
 これでは市場の治安がままならない。
 連盟がきちんと存在するためにも、
 市場は日本人である我々にまかせてくれないか」

もちろん、連盟側が簡単に応諾するはずはない。

しかし、岡は二日おきに連盟を訪ね、談判を続けた。
その裏にはMPや通訳に金を握らせ、
MP〜警察との関係を深めたことをほのめかす。

何度か談判を続けるうち、岡は二度、襲われている。

岡は普段から若い者を連れて歩くのを
好まなかったから、狙われやすいといえた。

闇にまぎれて最初は右の太もも、
二度目は腰を刺された。

事件にしないため、決して医者にはいかず
警察にも「あまり騒ぎなさんな」とクギをさし、
翌日はまた、平然と連盟へ出向いた。

何度か談判を重ねたある朝、
岡敏夫は若衆全員を集めた。

「これからわしは最後の話し合いに行く。
 結果次第では皆に死んでもらうかもわからんが、
 ええな。あとは頼むぞ」

短くても言葉に万感の思いが感じられた。
ふだんから滅多に口にしない冷酒をあおって
日本刀を手に玄関を出る岡敏夫の後姿に
その覚悟のほどがうかがえた。

「親分は死ぬ覚悟じゃ。
 話が決裂したらその場で会長を刺し、
 自分も殺されるつもりじゃろう」

「ほうじゃ、すぐ支度せい」

服部武の一声で全員が日本刀、
匕首のケンカ支度に走った。

急を知って村上組からもほとんどが応援に駆けつけた。
連盟の事務所前でも兵隊が鈴なりで、
岡・村上の面々とにらみあった。

対峙すること二時間。

岡は連盟の会長に見送られるように
ゆっくりと岡道場へ向けて歩いてきた。
岡の粘り腰と最後は刺し違える覚悟が
ついに連盟の譲歩を引き出したのだった。

岡敏夫、このとき三十四歳。
岡組の名前は広島中に知れ渡った。
【132】

ジギリ狼  評価

野歩the犬 (2014年12月22日 15時18分)

【無期懲役】

岡敏夫によって一命を救われた山上光冶は
明けて昭和二十一年(1946年)
岡組の身内として生きてゆくことを決め、岡に直訴した。

「わしゃあ、村上の奴らの顔を忘れん。
 ヤキ入れた奴の顔はみな、覚えとる。
 とくにわしを落とせぇ、言うて、命令した
 村上正明だけはわしに殺らせてつかあさい」

岡敏夫は一喝した。

「わりゃあ、なに考えとるんじゃい!
 正明はわしの舎弟じゃ。
 いくら、しごう(リンチ)されたからぁいうて、
 そげいなこと口でも許されるもんじゃない!」

岡組という組織に従属するということは、
当然ヤクザ社会の「縁筋」という
しがらみに縛られることになる。
命の恩人、岡の一言に山上は逆らえなかったが、
仲間内にはこう呟いている。

「わしゃ、ヤクザもんは嫌いじゃ。
 ほいじゃが、ヤクザになったんは
 復讐したいやつがおるからじゃ」

山上は懐から45口径の軍用拳銃を差し出して見せた。
当時の広島では朝鮮人らが貸拳銃業を始めていたが、
岡組組員で持つものはいなかった。
山上はおそらく、洋モクを仕入れた進駐軍ルートで手に入れたのだろう。

山上が拳銃を持っていることが知れ渡ると、
岡の親類筋の男が「道具を貸せ」と迫ってきた。
理由を聞くと隠退蔵物資を盗みに行くのだという。

「そげんヤバイところへ行くのに、
 わしが道具を貸した、いうたら
 親分にどげん、怒鳴られるかわからん。
 ええわい。わしが一緒に行っちゃるわい」

四月十六日夜、山上を加えた六人はトラックで
旭町にある旧広島被服廠倉庫に向った。
首尾よく梱包類を運び出して間もなく、
懐中電灯の光が闇を切り裂いた。
さっと光が走ったその先に親類筋の男がいた。

「こらっ、貴様、盗っ人じゃな」

警備員が走ってくる。

「逃げると撃つぞ」

警備員の右手に拳銃があった。
捕まった男は必死で抵抗する。

山上はそのとき、男を助けようと
梱包の山の陰から二人に近寄っていたが、
警備員の大声は真剣であり、
助けようにも拳銃は男の脇腹に食い込んでいた。

「おい、見逃がせい」

近寄った山上が押し殺した声で言ったが、
警備員は複数犯と知って声を張り上げた。

「なにい、逃げてみい、撃ったる」

山上の45口径が轟音を響かせたのはそのときだった。

がーン!という音が倉庫内にこだまし、
警備員は弾き飛び、男はつんのめって逃げた。

倉庫内にいた三人が闇に紛れようとするとき、
鋭いが切れ切れの笛の音が響き渡った。

撃たれた警備員の瀕死の警笛に
当直の警備員たちが駆け出してきた。

山上光冶はすぐに指名手配された。

撃たれた警備員は警笛を吹きながら
職に殉じたことが評価され死後に巡査に昇格したため
山上は警官射殺犯となり、十日にわたって逃亡したが、
最後は岡敏夫を訪ね、親類筋の男を守れず事件を起こした非を泣いて詫びた。

四月二十六日、山上はバラック建ての
広島東警察署に自首した。

夏近く、山上は広島地裁で判決公判の日を迎えた。

岡敏夫初め、山上を闇市でのリンチから救出した
服部武ら五人の若い衆が顔をそろえた。

裁判長は逮捕された三人のうち二人に懲役六年
山上には死刑求刑に対し無期懲役の判決を下した。

判決文を聞き終わった山上はくるりと振り返り、
傍聴に訪れた人たちの顔を見渡した。
最後にもう一度、岡敏夫を見つめると
静かに頭を下げた。

「長い間、本当にお世話になりました」

「みっちゃん、頑張れの」

「気ぃつけての、達者での」

服部らが小声で別れの言葉をかけたとき、
山上はもう背中を向けて
広島刑務所に向っていた。
【131】

ジギリ狼  評価

野歩the犬 (2014年12月19日 15時48分)

【平蜘蛛】

意識が戻った山上は以後、
信じられない回復ぶりをみせる。

リンチから五日後、
事件を耳にした中国新聞の記者が
それとなく岡敏夫の家を訪ね、
この日初めて食べ物を口にする山上の姿を見ている。

山上は強い酢酸の匂いが立ち込める部屋で
全身を打ち身膏薬で固められ、
若い衆の手を借りて重湯をスプーンで飲んでいた。

顔の形が変わってしまっていた山上は
己の姿を恥じたのか、
のぞき見た記者に不敵な面構えで
嘲笑うかのように口を歪めた。

その嘲笑こそが山上の不屈の精神力の象徴だったのか。

戦後、初めての新年を迎えるころには、
山上得意の口笛が冬の夕映えに低く響くようになる。

山上は回復のスピードと同じように
西村よし子との愛を結実させた。

よし子は憲兵の夫との間に二人の子がいたが、
夫の戦死によって叔父の岡敏夫の許を頼り、
岡宅より少し北の山根町に住んでいた。

二人が結ばれたのを岡敏夫夫妻初め、
組の誰もが気づかなかった。

山上は美貌のよし子に一目ぼれであり、
看病しながら触れた手を握り返し
膏薬を貼り変えながら頬と頬が触れ合い、
笑いあって、見詰め合えば、思いは通じるのだった。

山上は歩行が自由になりだすと、
山根町のよし子の家に通いだす。

よし子の下で子供たちの遊び相手になっていると、
その姿もまた、よし子の心を開くことになった。

そういう微妙な変化は女の方に現れ、
また、それに目ざとく気づくのも女の目であった。

「あの光冶をまさかと思うんけど、
 どうも、よっちゃんを見ると
 二人があやしうてならんのよ」

妻に言われて岡敏夫も確かめる。

よし子に聞いてもうつむいて答えないので
山上を呼びつけた。

「光冶、よし子とできとるようじゃが、
 ほんまのことか」

「はあ、まことにすんません。看病受けちょるうちに」

「馬鹿たれ!よし子はわしの姪じゃ、
 助けてもろうた礼に女に手ぇ出すんじゃ
 泥棒猫にも劣るわい!」

岡親分の平手打ちが飛び、
山上は平蜘蛛(ひらぐも)のように這いつくばった。

以後も山上は岡の一喝にあうと必ず
「平蜘蛛のように這いつくばった」という。

「ま、できたもんは、しゃあない」

ひとしきり怒ったあと、
山上とよし子の仲は公認となったが、
それだけに山上は親分や仲間の前では
決して二人にならず、こっそりと
山根町通いを続けることになる。
【130】

ジギリ狼  評価

野歩the犬 (2014年12月19日 15時11分)

【生 還】

山上光冶がかすかにまぶたを震わせたことに気づき、
明るい希望の声をあげたのは、
岡敏夫の姪の西村よし子だった。

姐さんから頼まれて寝ずの看病に当たっていたその日、
山上の死地からの生還に立会い、
やがて二人は結ばれるのだから、
これほど奇しき縁もない。

山上は色白で大きな目をしたよし子の顔に気づくと声をあげた。

「ここ、ここはどこじゃ」

「岡の親分の家よ。と言うてもあんた、
 分からんじゃけん、気にせんといいのよ。
 あんた、親分に助けられたんやから、
 安心して寝ときんさい」

よし子が山上の耳元で囁くと、
山上はかすかに頷きかけて、うめき声をあげた。

「ほらほら、動いたらあかん。
 死んどっても不思議ない体やったんけん。
 でも、痛むのは治る証拠。
 看病したげるから、寝ときんさいな」

よし子の声が身にしみたのか、山上は目を閉じたが、
腫れたまぶたの端から小さな雫が
こめかみへと伝わり落ちた。

額の濡れ手ぬぐいでその涙を拭きながら、
よし子は赤チンと膏薬だらけの山上の体を
布団の上からそっと撫でた。

「うちが治したんや、うちの看病が通じたんや」

西村よし子は感動した。

よし子が山上に話しかける声で
庭からすっ飛んできた岡敏夫も同じ思いだった。

医者も見放したボロ切れのような男をとにもかくにも、生き還らせたのだ。

「よし子、こいつは不死身じゃのう」

「ほんま、叔父さん、うち、もう、嬉しくて」

よし子は岡敏夫に悟られぬよう、
さりげなく目頭を押さえた。

今まで物言わぬ石仏のようだった目の前の男が
急にいとおしくなってきたのだった。
このとき、よし子の心に
愛の萌しが芽生えかかったのかもしれない。

山上の傷は瀕死の重傷であり、
現代なら集中治療室ものだったろう。

仮に奇跡の生還はあったとしても、
それは医療の力といえるが
薬とてない、終戦直後である。

山上の生還は看護が救ったとしか言いようがなく、
そうして一人の生命を救うということは、
原爆で一瞬のうちに還らぬ人を
無数に見てきた広島の人間にとっては、
現代では考えられないほどの感動を与えた。

「おい、あげいなのが、息吹き返すんかいの。
 たまげたのう」

「ほんまじゃ、あいつ、不死身かい」

「一張羅の服がワヤになった甲斐があった、
 いうもんじゃ」

リンチの現場から山上の身体を運び、
交替で看病に当たっていた
服部武、原田昭三、丸本繁善らも同じ思いだった。

ときに山上光冶、二十一歳だった。
【129】

ジギリ狼  評価

野歩the犬 (2014年12月19日 15時08分)

【救 出】

騒然とする闇市に偶然、
自転車で通りがかったのが、
博徒の岡組組長、岡敏夫だった。

村上正明は岡敏夫と舎弟盃を交わしていた仲だった。

岡敏夫は自転車を降りると、
騒ぎを遠巻きにして見ている
自分の若衆を見つけて一喝した。

「なにしとるんじゃ。早う、やめさせて助けい。
 あのままじゃ、死体が一つ、出るじゃろうが」

兄貴分に気づいて村上正明らもさすがに手を引いた。

「服部、図体がでかいお前が背負え」

名指しされたのが岡組若衆頭格の服部武である。

原田昭三、丸本繁喜ら四人が割って入った。

岡敏夫は先に自転車で走った。

「背負うて助かりゃ、ええが、のう。
 見てみい、わしの一張羅、血だらけじゃ、
 こりゃ、おえんわい」

白い毛皮のついた飛行服が
みるみる血に染まるのを見て、
服部はこぼしながらも足早で岡の自宅に向かう。

途中で交替しながら駅裏の尾長町の岡宅に
たどり着いたときはまた、服部の番だった。

「泣けるのう、もう、わやじゃ」

「まあ、辛抱せい」

出迎えの若衆も服部の泣きを面白がって返したが
肝心の山上はその間、背負われたままピクリともしない。
時折、うなされたように
「覚えとれ」とうめくのみ、だった。

若衆部屋の六畳間に姐さんが敷いた布団へ
山上を横にしたと同じくして
岡敏夫が医者を連れて戻ってきた。

しかし医者が来ても医療品の払底していた時代だった。

赤チンで傷口を洗い、打ち身膏薬を貼りながら
医者は全員を見回しながらつぶやいた。

「これはもう無理じゃ。
 出血は止まっとるが、わしの手にはもう負えん」

「ほいでも先生、まだ死んどらん。
 ま、できるだけ面倒みてみますけん
 明日、また診てやってくださらんか」

岡の頼みに医者は力なく頷いた。

ところが山上は仮死状態でその夜を明かすと
翌日は傷の痛みが分かるのか
少しずつ、うめき声を出すようになる。

岡組の全員が交替で徹夜の看病にあたった。

医者も絶望的な表情から首をかしげて
「もう少し様子をみんと分からん」
と言うようになった。

リンチから三日目。

「この人、意識が戻ったんやないかしら」

ぼやけた山上の視界に若い女の顔が映った。
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