■ 7,559件の投稿があります。 |
【4689】 |
海好き男 (2008年02月01日 17時30分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
皆さん、お久しぶりです。 以前に書き込んだ時に、お返事をくれた方、ありがとうございました。 下の侍魂さんへ 何事かと思いましたよ(笑) 新手の嫌がらせかってね(冗談) 近くのサンヨーのホールでカリブのSAEを 打って来ましたから、感想を述べさせていただきますね。 ここのホールは換金率が悪いくせに、とにかく回らない。1箱満タン、山盛りにして、ようやく、5千円。 1k/15〜20回位かな。ほとんど、等価並み、 わたしが下手なせいもあるかも。 以前のSAEと同じだと思って打っていたから、 −20kも暴走し、総当り回数12回、最大1,5箱出たけど、全て飲ませました。6連荘が1回来ただけ。 これ、SADより、辛いね。200台の嵌り、何回来たかな。 熱くなりすぎて、追い銭の連続。嵌り回数を覚えてないほど。 だって、気付いたら、回りにお客さん、1人も居らず。 2列分、わたし1人。 でも、海モードで打っていて気付いたんだけど、 これって、擬似連演出があるのかな? ワリンチャンス目の 1 1 1 これが2回連続して続いた後、1が来て当たったんだけど。ただ、単に偶然かな? 勝負できる台ではない事は確か。 |
|||
この投稿に対する 返信を見る (4件) |
【4688】 |
S・Pエス (2008年02月01日 16時42分) |
||
これは 【4686】 に対する返信です。 | |||
○侍魂さん、こんにちは。 吉宗のご説明お疲れ様でした。大作ですね。私から申すことは何もありません。RX-78-2さんも読むのが大変ですよ。 でも、とても読みやすく勉強になりました。 ○RX-78-2さん、こんにちは。 侍魂さんの知識は凄いですね。それにしても、これだけのことを書いてくれるRX-78-2さんの慕われ振りも凄いですよ。 ○要さん、こんにちは。 もう要さんとは「言わずもがな」の仲と自負していますので、直接の返信をしていませんでしたが、先程の私へのご返信は改めて感謝しています。 ロンネコさんは今頃充電中でしょうか。それともパチ屋で放電中だったりしてね。 ○ヤンチャーさん、こんにちは。 顔文字上手いですね。私にも運をくださいね。これからも楽しい内容で明るくしてください。 皆さん、一週間お疲れ様でした。明日は朝遅くまで寝ていたいなぁ、娘が起こしに腹に飛び乗らないことを祈りつつ、今週の締めに入ります。では、良い週末を。 |
|||
この投稿に対する 返信を見る (3件) |
【4687】 |
侍魂 (2008年02月01日 15時34分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
今日は時間がないので,レスを戴いている方には明日, 返レスをさせて戴きま〜す。o(*^^*)o ゴメンちゃいで〜す。(^人^) |
|||
【4686】 |
侍魂 (2008年02月01日 15時31分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
こうして大御所になった吉宗は, 宗武(次男)に田安家を,宗尹(三男)に一橋家を封じ創設します。 これが有名な御三卿の内の二家です。 吉宗の死後(享年六十九歳)に家重の次男重好が清水家として封じられ, 正式に御三卿の体制が確立しました。 御三卿の大きな特徴は,親藩大名として家格が徳川御三家に次ぎ, 幕府からは各家に十万石が給せられていましたが,独自の「藩」は立てず, 諸国に分散していた領地の実効支配は幕府に委ねられていました。 また家老以下の家臣団も,主に旗本・御家人などの幕臣が, 自分の家臣を引き連れての出向により構成されていた由があります。 この様に御三卿は独立した別個の「大名」,いえ,「家」と言うよりも, 徳川宗家の将軍家の「家族・身内」として認識されており, 社会的にも経済的にも大きく幕府に依存しているのが実態だった様です。 これが一般的な大名家の「藩」との大きな相違点です。 一説では,御三卿の領地経営による幕府への委任が結果として, 御三卿間の対立や幕府内の政争を必要以上に激化させたとの見識もある様です。 後に田安家の松平定信(吉宗の孫)が実権を握り, 寛政の改革を断行するのは有名ですよね。 当時は身分制度が厳格にされていましたが, 実質,大商人の存在は幕府にとっても日本経済全体においても, 途轍もなく大きく,決して無視をする事はできませんでした。 オランダ・清・朝鮮以外とは鎖国の中で, その商業よりも武士の給料である米,即ち農業に依存して呪縛されていたのが, 商業蔑視の儒教に濃く色づけられた当時の江戸幕府と諸大名の実態です。 その中において数々の大英断を実行した吉宗も, 残念ながらその枠組みからは抜け出す事ができなかった様です。 しかしながら,三代目家光時代までの将軍権威の復活を目指し実現させ, また破綻寸前の幕府財政を再建した事から, 「江戸幕府中興の祖」などと崇め呼ばれています。 ※以上で殿下からご依頼を受けた吉宗の事を書き殴りましたが, お分かり戴けたでしょうか? 可なり“はしょり”,且つ,チト説明が下手でゴメンチャイです。 時代背景と時代の流れが分らないと,歴史は面白くないかも?ですが, その他,吉宗について何か関心のある逸話があれば,説明差し上げますよ。 |
|||
この投稿に対する 返信を見る (1件) |
【4685】 |
侍魂 (2008年02月01日 15時30分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
吉宗の後を継いで九代目将軍になる嫡男家重は, 言語不明瞭で政務が執れる様な状態では無かったため, 吉宗が死去するまでの六年間は大御所として実権を握り続けました。 家重は生来虚弱の上に脳性麻痺とも推測されている障害により, 言語が不明瞭で歩行障害を伴っていました。 そのため幼少時から大奥に籠りがちだったとの事です。 また幼少時から成人しても失禁の症状が頻繁だったため, 後には「小便公方」と渾名されていました。 この様に吉宗五十一歳の時に将軍職を長男・家重に譲り大御所となりますが, その際に将軍家継嗣争いとして一騒動がありました。 暗愚な嫡男家重より聡明な庶子宗武(次男)や宗尹(三男)を, 新将軍に推す動きが将軍家継嗣争いの騒動でした。 吉宗の本意は,文武に長けた宗武と宗尹を高く評価しており, 将軍職にも何れかに譲りたかったのだと言われています。 しかし宗武と宗尹と,その取り巻きの将軍継嗣争いの確執を避けるため, 言葉を替えれば,お家騒動を回避するためと, 三代目将軍家光と駿河大納言忠長以来の「長幼の序」を重視したが故に, 敢えて暗愚な嫡男家重を選んだ様です。 しかしその背景には,家重の嫡男徳川家治(後の十代目将軍)が, とても聡明だった事も大きな要因になった様です。 ただし家重は言語障害は有ったものの, 将棋を好み将棋に関する著作があるぐらいですから,知能は極めて正常であり, 一説には将軍として政務を行える力量の持ち主で有ったとも言われていました。 しかし多少器量が低くとも,有能な側近さえ居れば補ってくれたでしょうね。 |
|||
【4684】 |
侍魂 (2008年02月01日 15時29分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
数多く残される逸話をもう少し続けます。 吉宗は有限実行型だった話しをします。 享保の改革の一環として倹約令を発布しますが,自らも質素倹約に努め, 着物は木綿(当時の高貴な人物は絹)で, 食事は朝夕の二回(当時の高貴な人物は三回)とした上で, 献立も「一汁三菜」(可なり質素)としたらしいです。 この自分が率先しての質素倹約・武芸の奨励によって, 武士たちの精神を引き締める模範となりました。 しかし御三家筆頭尾張家藩主の徳川宗春は, 商業政策の「温知政要」という書物を刊行し,吉宗の倹約令などを批判しました。 果たして隠居謹慎を命じられ六十九歳で亡くなるまで幽閉されました。 そして宗春の死後七十余年まで赦免されませんでした。 因みに宗春の墓石には罪人を示す金網が被せられていたそうです。 自ら注文して象を輸入し,長崎から江戸まで陸路で運ばせました。 この事により,江戸に象ブームが巻き起こったそうです。 美術へ傾倒も強く才能も豊かだったそうです。 狩野常信の師事を受けており, 狩野古信(常信の孫)に絵の手ほどきをしています。 絵画の作品も何作か残されているそうで, 淡墨を使って描く「にじみ鷹」の技法を編み出しています。 またこの頃近松門左衛門の人形浄瑠璃の影響で流行した心中を抑制するために, 心中未遂で生き残った男女を,人通りの多い場所で晒し者にさせています。 絵画に限らず芸術全般,又は目新しいモノに関心を抱いた様です。 |
|||
【4683】 |
侍魂 (2008年02月01日 15時29分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
数多く残される逸話の中で,まずは大奥関係の話題です。 湯殿番には通常は前述の通り,奥女中が宛がわれていましたが, 狭い湯殿でのアクシデントの結果は,後継争いと陰謀の大きな種に繋がります。 そのため吉宗は大奥の中で湯殿番には,唯一男性を起用しました。 しかし一方で男色だったとも伝えられています。 有名な武将の中では上杉謙信や織田信長も一種の男色だったと言われています。 また大奥で容貌の良い者を親元に帰し,容姿の悪い者だけを大奥に残しました。 更に村を訪れた時に容貌が悪くて嫁の付き手がいない女性に一目惚れし, 側室に入れたりした話もある事より吉宗は, 醜女が好みだと噂をされていました。 因みに大奥で容貌の良い者を親元に帰したのは, 大奥で修行をせずとも嫁の貰い手が有るはずで, 容姿の悪い者は親元に帰しても嫁の貰い手がないから大奥で預かるのだと, 説明をしたそうです。 吉宗は身長が高くガッチリ型の筋肉質だったらしく, 若い頃は関取とガチンコで相撲を取った事もあるそうです。 天下泰平の世になり儒学の影響で勉学に勤(いそ)しむ傾向が, 強くなり始めた当時に,敢えて文武両道の精神を持ち込んだ事は, 吉宗の力と武術に対する自信の表れが結びついてきそうです。 しかし異説では身長が低かったと言われ, それ故にコンプレックスの表れだと捉える研究者も居る様です。 武術と言えば,鷹狩などの武芸を率先して好み,武芸奨励を推し進めました。 綱吉の定めた「生類憐みの令」を即日廃止した六代目将軍家宣を批判するほど, 幕府創設者である徳川家康と並らべるぐらいに, 幕政改革に熱心であった五代目将軍綱吉をすこぶる尊敬していました。 しかし,綱吉時代に禁止されていた鷹狩の復活と奨励を行っています。 必ずしも綱吉一辺倒ではなかった様ですね。 |
|||
【4682】 |
侍魂 (2008年02月01日 15時28分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
晴れて将軍になった吉宗は,「享保の改革」を断行します。 その一環としてまずは,間部詮房・新井白石・本多忠良らを罷免し, 側用人政治から綱吉時代,いえ家光時代の将軍親政に復しました。 そして紀州藩主としての藩政の経験を活かし, 水野和泉守忠之を老中に任命しました。 これと前後して,具体的な享保の改革を含む吉宗の政治になります。 享保の改革は幕府財政の建て直しが主眼とされ, 寛政の改革,天保の改革と並び,江戸時代の三大改革と位置付けられています。 以下主な政策を羅列しますが,私自身も詳しく説明できないものもあります。 ・広敷伊賀者の任命(後の御庭番) ・鷹匠頭の設置と鷹場の復活(尊敬する綱吉の政策との相違) ・林奉行の諸国御林の巡察(飛鳥山や墨田川堤などへ桜の植樹) ・大奥法度制定(湯殿番での女人禁止など) ・小普請奉行の創設 ・両替屋及び人数の認定(町方 600人と寺社方35人) ・新古金銀引換規則の制定(貨幣価値の安定?) ・国役普請制の制定(十万石以下の大名家限定) ・武家諸法度の参勤交代の緩和(上米の制で旧に復す) ・倹約令の発布(御三家筆頭尾張家徳川宗春の処罰) ・六年毎の戸口調査の規定(1721年享保 6年の総人口初調査では2600万人) ・定免法や上米令の制定(幕府財政収入の安定化) ・新田開発の推進(同上) ・足高の制の制定(人材発掘) ・官僚制度改革(大岡越前守忠相の登用) ・司法制度改革(公事方御定書を制定) ・江戸町火消し組織の設置(いろは組の創設,暴れん坊将軍での“め組”など) ・目安箱の設置(庶民の意見を政治へ反映) ・小石川養生所を設置(黒澤監督で三船敏郎主演映画『赤ひげ』が有名) ・洋書輸入の一部解禁(蘭学興隆の一因) ・文武両道の奨励(文治政治から武断政治へ転換) ・五公五民にする増税政策(異説あり。百姓一揆の頻発を招く) ・吉宗血筋の藩塀,御三卿の制定(一橋・田安・清水家) 吉宗の行なった享保の改革は一応成功し, 幕府財政もある程度は再建されました。 そのため,享保の改革は後の寛政の改革・天保の改革の基本となりましたが, 財政再建の一番の要因は上米の制と五公五民などの増税によるもので有り, 増しては上米の制が将軍権威の失墜を招きかねないため, 一時的なものに為らざるを得ず,また増税は百姓一揆の頻発を招きました。 そのため寛政・天保の両改革ではこれらの政策を継承できず, 結局失敗に終わる事になります。 次の部ではこの政策に絡んだ有名な逸話を幾つか紹介します。 |
|||
【4681】 |
侍魂 (2008年02月01日 15時27分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
吉宗の紀伊藩主としての大改革がある程度の成果が出てきていた頃, 七代目将軍徳川家継が幼少で亡くなり, 徳川将軍家の血筋(家康の三男で二代目将軍秀忠の嫡流)が途絶えた後を受け, 初めて御三家筋から家康に一番血統が近いという理由で, 御三家筆頭尾張家を抑えて八代目将軍に就任しました。 しかし実際は,秀忠の直系子孫松平清武と言う館林藩主が存在していました。 館林藩領内は重税のため一揆が頻発していた事, 本人が一度は他家に養子に出た事,既に高齢で血の繋がった男子がいなかった事, 将軍職に対する野心・意欲を抱いていなかった事などから, 選考対象から外れていた様です。 ここで留意しなければならないのが, 御三家筆頭を抑えてまで血の濃さを重視した当時の家系の捉え方です。 当然尾張藩には家康に繋がる六代目藩主徳川継友が存在していましたが, 家康の曾々孫に当たり,家康に対し吉宗よりも一世遠い存在でした。 この事は吉宗の(九代目将軍)後継者問題にも大きく絡んできます。 吉宗は将軍就任にあたって紀州藩を廃藩とせず存続させたました。 過去の例では五代目将軍綱吉の館林藩,六代目将軍家宣の甲府藩は, 藩主が将軍の継嗣として江戸城に呼び戻されると廃藩にされました。 その藩士のほぼ全てが幕臣となったのだから当然の措置でした。 しかし吉宗は御三家の一つ紀伊藩が, 東照神君家康から拝領した聖地であるとして, 従兄弟の徳川宗直に家督を譲ることで存続させました。 その上で紀州藩士の内から“大禄でない二十余名”を側近として選抜し, その選抜した藩士だけを伴って江戸城に入城しました。 そして残りの藩士は紀州にそのまま残りました。 こうした措置は綱吉,家宣の入城時には見られず, 柳沢美濃守吉保,井伊掃部頭直該らに代表される側近政治を, 怯えていた譜代大名・旗本・御家人筋から強い好感を持って迎えられました。 こうして吉宗の機転で由緒正しい紀州藩は,後に制定される御三卿と共に, 吉宗の血筋の藩塀としての役割を担いました。 御三卿については将軍家継嗣争いの際に記述をします。 |
|||
【4680】 |
侍魂 (2008年02月01日 15時27分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
吉宗の紀伊藩主時代に正室の他,何人かの側室を設けています。 そして女中との間に嫡男長福(家重), 次男小次郎(田安宗武)が生まれており, 将軍在任中に起こった「天一坊事件」の遠因にもなりました。 天一坊事件とは,武蔵品川宿で紀州生まれの源氏天一坊(正確には源氏坊天一)と 名乗る山伏が,将軍徳川吉宗の御落胤と称し, 謀反を企てていたと言う理由で捕らえられ,獄門になった一連の事件です。 吉宗の意を受けて江戸町奉行に抜擢された大岡越前守忠相(ただすけ)の裁判を 集めた講談『大岡政談』に収められ, 大岡越前守の名裁きの一つとして歌舞伎・映画・小説の題材になっています。 しかし実際には,大岡越前守はこの裁きには関係していません。 天一が捕らえられ詮議の際に吉宗自身, 和歌山城内の奥女中を相手にしたと身に覚えがあった様です。 その結果として嫡男長福と次男小次郎が生まれています。 子供は生まれなくとも,相手又は手籠めにした事は当然, 大なり小なり有っただろうと思われます。 詮議の中で天一は,自分の母“よし”が和歌山城に奉公に上がり, 妊娠して里へ帰され産まれたのが自分だと訴えていました。 これが簡単ですが「天一坊事件」の顛末です。 |
|||
© P-WORLD