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【9375】 | 貴公子スペエースさん♪ 侍魂 (2007年12月20日 10時51分) |
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一昨日は書き込み途中に所用ができたためレスができず, また返レスが遅れてしまい,失礼しました。(^∧^) 再度のご見解補足,感謝感激です。 毛利家のご見解は,私も全く同意見です。!!(^Q^)/゛ > 関ヶ原は前哨戦と思える大垣城の攻防と大津城の攻防が大きく作用したように 思えるんですね。< 信長の嫡孫秀信の居城は私の記憶間違いではなければ, 岐阜城だったと思いますよ。 しかし何れにせよ,上田城の攻防とを併せて, 本戦に大きな作用を促したとのご見解には私も全く同感です!!ヘ(^.^)/ もし,西軍の勝利だったならば, 秀忠軍3万8千を足止めさせた真田家の功績は,絶大だったと思います。 実際には西軍の勝利の暁には,信州一国が約束手形とされていました。 因みに家康の忠臣で徳川四天王の本多忠勝(真田信之の岳父)から真田家は, 東軍に寄せれば,10万石の約束手形を得ていたらしいです。 実際には真田昌幸・信繁親子と袂を分かち,東軍に組した信之(当時は信幸)が, 9万5千石の恩賞を賜りました。 しかし当初は,秀忠の真田一族に対する逆鱗は相当だったらしく, 東軍に組した信幸でさえ一族同罪で,罪一等を減じて改易との処遇でした。 岳父である本多忠勝の身を挺しての奔走により, 昌幸・信繁親子は死罪から高野山への流罪となり,信幸は知行を安堵されました。 東軍の岐阜城攻略前には西軍が畿内及び伊勢と美濃をある程度制覇していました。 しかし岐阜城落城後からは状況が一変します。 西軍勢力範囲になりつつあった伊勢・美濃で, 東軍に就く大名が出始めましたから,西軍側に相当な動揺がでたみたいです。 吉川広家の内応も鍋島直茂の中立(建前的には西軍でしたが)も, この落城で最後の意を決したのではないかと推察しています。 だから,この余韻を引きずりつつ,不協和音を残しつつ, 合戦に臨んでしまったのは,実質西軍の大将石田三成の失策だったと思います。 大津城の攻防には立花統虎・毛利秀包ら九州勢が中心に, 1万5千の兵が攻城していました。 立花統虎は大津落城後に関ヶ原の敗戦を聞き,素早く大坂城に登り, 名目上の西軍総大将毛利輝元に 「大坂で軍を立て直し,難攻不落の大坂城に籠城して,徹底抗戦すべき」と 進言したそうです。 東軍の武将の多くは秀吉恩顧の大名で, 秀頼の居城である大坂城の攻略には快く思わず, 東軍の内部分裂が必須との読みからだと推測しています。 結局は輝元には受け入れられず,九州に引き返したとの逸話があります。 統虎は大友家の重臣高橋紹運の嫡男で立花道雪の婿養子です。 統虎も当然,大友家の家臣にあたりますが, 秀吉が敢えて直臣の独立大名として取り立て, 「その忠義,鎮西一。その剛勇,また鎮西一。」 「天下無双の武将として,東の本多忠勝,西の統虎」と高く評価したとの事です。 大坂の陣で家康が最も恐れたのが, 真田昌幸(当時は既に故人)と統虎(当時は陸奥棚倉で一万石の大名)の 大坂側としての参戦だった事から, 関ヶ原直後から執拗に取込を行っていた様です。 結果として関ヶ原で改易された多くの大名の中で唯一,返り咲いた大名でした。 この様な統虎が本戦に参加できていたら, 果たして…と考えたらキリがありませんね。 日本史の話はつい熱中してしまいます。 また,スペエースさんの博識によるご見解を読ませて戴くのは, とても楽しいです。ヽ(*^^*)ノ |
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【9383】 |
S・Pエス (2007年12月20日 11時43分) |
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これは 【9375】 に対する返信です。 | |||
侍魂さん、こんにちは。 遅れましたが、創業独立おめでとうございます。益々のご発展を心より祈念致します。また、勤務とは全く違うご苦労、ご心労も多くなると存じますが、こちらで気分転換され、共に楽しみましょう。 信長の嫡孫秀信の居城は岐阜城でしたね。ほんと歴史にお詳しいですね。私の知識は歴史ファンの初歩段階くらいのものですからね。知らないことの方が圧倒的に多いですよ。 高橋紹運は戦国期でも希な籠城玉砕をした武将だったと記憶していますが、人望も厚かったようですね。立花道雪と2人で傾いた大友家を支えたことは、何かの本で読みました。 特に道雪は家臣を大事にし、武功があれば発表し褒め称える一方で、武功を挙げられない家臣には励まし、命を大事にし自分を守ってくれと優しく接したそうです。 >日本史の話はつい熱中してしまいます。 ほんとそうです。私では侍魂さんのお相手には不足ですから、物足りなさを感じるでしょうけど、よろしくお願いします。では。 |
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